Once in a Blue Moon ~ 冷酷暴君の不可解なる寵愛 ~

束の間、思考回路がバグったように停止する。
全く想定外のワードだったから。

赤ちゃんって、何? 一体どういうこと?

黙ったまま瞬きを繰り返す私へ「私は産婦人科の看護師だったのよ」と前置きして、桜木さんは話を続けた。

「平成〇〇年の8月頃に附属病院で生まれた男児の行方を捜していると言われたの。でも当時からしても、10年以上も前に生まれた子よ。私自身だって覚えてないし、カルテの保存期間だって過ぎているし、無理ですって最初はお断りしたの。なのにどうしても知りたいって、母親だという人の写真を見せられて……すぐに思い出したわ。あぁ彼女だって」

よほど印象深い妊婦さんだったんだろうか。
桜木さんは記憶を探るように庭へ視線をやり、苦し気に息を吐きだした。

「医療の現場にいるとね、どうしても避けられないことよ。“死”に向き合うことはね。でも、まだ若い、あんな綺麗な人が……」

「その方は、亡くなったんですか?」

「えぇ。もともとあまり丈夫な方じゃなかったのね。出産に身体が耐えられなくて……お母さんの命か、赤ちゃんの命か、って辛い選択を迫られた時、その女性はどうしても赤ちゃんを助けてほしいって訴えてね。『この子に広い世界を見せてあげたいんです』って。もちろん私たちも力を尽くしたけれど、やっぱり2人一緒には助けられなかった。赤ちゃんを産み落として、それから2日後にお母さんは……。若いお父さんが赤ちゃんを抱えて、ベッドの脇で泣いていてね。もう、見ていられなかった」

目を赤くして声を詰まらせる桜木さん。
私も、想像しただけで胸が痛くなってしまった。

生まれたばかりの赤ちゃんを残して死ななきゃならないなんて……お母さんはどれほど無念だっただろう。

「だから強く記憶に残ってたのよ。その後、赤ちゃんはお父さんが連れて退院して……それをそのまま、先方には伝えた。すると今度は、その父親の居場所を教えろと言われてね」

「教えたんですか?」

がっくりと彼女は項垂れる。
教えた、ってことだ。

「わからないって、言えばよかったと後で後悔したわ。2人はまだ結婚前だったらしく、役所関係から行先を辿ることはできなかったらしいの。その上そのお父さんは赤ちゃんを連れて引っ越していたし……本当に、教えなければよかった」

「桜木さんは、どうして引っ越し先までご存知だったんですか?」

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