一夜限りだったはずの相手から、甘美な溺愛が止まらない。
誰にも聞こえないように小さくため息を落としながら、静まり返った夜道を歩いて帰ろうとしていたとき。
少し離れた先で私を待っていたのは鳳間さんだった。
社会人になってからこれまで、男性のスーツ姿を毎日のように目にするようになって、すっかり見慣れたものだと思っていたけれど、鳳間さんの体格や長身長を活かした皺一つないその姿に、どこに焦点を当てていいのか分からず目を泳がせてしまった。
彼の隣には先ほどお見送りしたときに乗り込んでいた車とは違った、高級感溢れる車が脇に停まっている。
「ほ、鳳間さん……!あの、どうしてこちらへ?」
「お忘れですか?僕達にはまだ話すべきことがあるでしょう?」
鳳間さんのいう『話すべきこと』が何を指しているのかは分かっている。
忘れていたわけじゃない。むしろずっと“そのこと”が頭から離れずにいたくらいだ。
「……っ」
まだ何も解決策が思い浮かばない状況だというのに、いよいよこのときが来てしまった。
今日が金曜日ということも相俟って、通常どおり定時まで業務を熟したのち、ここ数年で大一番と言っても過言ではないほどの接待を終えたばかりの私の体力は、そろそろ限界を迎えつつある。
残りわずかな余力で頭をフル回転させてみても、鳳間さんに言い訳する内容すら出てこない。
「とりあえず場所を変えて話を……」
「あ、あの、鳳間さん!」
「……はい。どうされましたか?」
「あのときは本当に申し訳ございませんでした!」
「え?」
「あの日バーで声をかけたのが鳳間さんだということに気付かず……っ、その、大変失礼なことをしてしまったという自覚がございます!」
こうなったらもう、とにかく謝り倒す戦法でいくほかない。
これでもかというほど深々を頭を下げて、彼に許しを乞う以外の解決策が思いつかない。
「あの日のことは、決して誰にも口外いたしません!」
「加奈さん、頭を上げて」
「信用していただけないのなら、何か契約書などを交わしても構いません」
「……」
「あの、なのでどうか、鳳間さんも私のことなどお忘れになってくだされば……!」
芸能人やモデル、うんと格好良い人と特別な関係が持てることを夢見ていた時期もあった。
実際に同じ会社の同期で、営業事務課の友人は一時期人気俳優とそういう関係になっているのだとこっそりと教えてもらったことがある。同じ秘書課の先輩も、芸能人との飲み会に参加した経験があるとも言っていた。
けれど、私はもう、そんな甘い夢を望んだりはしない。
本当に平凡でよかった。
愛した分だけ愛されて、大切にしてもらえればそれでよかった。
そこに過剰な名誉も、あり余るほどのお金も必要ない。
世の中にはこんなにもたくさんの人で溢れているのに、その中のたった一人、自分が愛してる人に愛されるだなんて、そんな奇跡のようなことが私にも起こるのだとしたら、それだけでもう十分だと思っていた。
だから、鳳間さんには私との一夜なんてまるで最初からなかったものとして記憶から消し去ってもらって構わない。平凡な私にとって、きっと鳳間さんとのワンナイトを忘れることはできないだろう。
けれど、彼は違う。
本来なら私のような凡人とは出会うはずのない、全く縁もゆかりもなかったはずの人だから。
「……なるほど。あなたの言い分は分かりました」
「で、では……!」
「──ただ、忘れられない場合は?」
「え?」
「あなたとの一夜を忘れられそうにない場合は、どうすればいいのかと聞いているのです」