宛先不明の愛
控え目なエンジン音が、誰もいない町を独り占めしている。わたしは、郵便バイクを駅前に停めた。空はまだ青い。右手に中身が入ったレジ袋と鞄をぶら下げて、ベンチに座った。駅前は、観光客用の休憩所がある。テーブル付きのベンチや、案内板、駅舎の壁には近くの宿場町を宣伝したポスターが貼られている。ここから三十分歩けば、昔の町並みを観光できる。
「寒いなあ。指先から凍ってしまいそう」
テーブルに背を向けてベンチに座る。こうすると、町の様子がよくわかるし、空も見やすい。温かい吐息で手を温めてから、ビニール袋に入ったペットボトルを取り出した。
新緑みたいに色づいたお茶だ。赤くなった手で蓋を開けて、一口飲む。
「あったかい」
息を吐くと、真っ白だった。鞄から、手紙を何枚か取り出す。全部、彼からの手紙だ。その時、駅に電車が滑り込んでくる金
属音がした。一両編成のワンマン列車で、ただでさえ少ない乗客は、ほとんどこの駅で降りる。駅の中に足音と、話し声が流れ込んできた。首だけを後ろに向けると、空っぽになった列車が、次の駅へ走っていく姿が見えた。
観光客だ。三十代ほどの男女が六人いる。みんな冬の寒さに耐えられるよう厚着をしている。靴は歩きやすいスニーカーを履いていた。頬が、寒さで桃みたいな色に染まっている。
「寒いねえ」とポニーテールの女性が言った。
「宿場町までどれくらいだろう」精悍な顔つきの男性が言った。
「三十分ってポスターに書いてあるみたいだわ」髪にウェーブがかかった女性が言った。
みんな楽しそうだ。わたしと同じだ。いや、どうだろう。
男女の集団は、この町になんの興味も示さずに歩いていってしまった。六つの足音が、遠くに行ってしまう。わたしといえば、どこにも行かず、ここに取り残されている。でも、わたしには彼からの手紙がある。
わたしは、緩んでしまう頬をそのままに、手紙を開けた。もう何度も読んでいる。彼から花さんに向けた愛の言葉の数々だ。
ただ、彼が書いた言葉の先に花さんはいない。花さんになりすましたわたしだ。わたしも、彼に愛の言葉を送っていた。なんて書けばいいかわからなかったけれど、花さんが選びそうな言葉ならわかる。
目の前の道路を、原付に乗った警察官が通り過ぎていく。視線が合って、小さく頭を下げた。
彼は今、泣き止んでくれているだろうか。こんな方法しか思いつかなかったけれど、初めてしまったものは仕方がない。わたしの中で、雪が溶けていくみたいな心触りがする。草花が芽吹くのを見た時みたいな温かさがある。これはきっと本物だ。そうであってほしい。
彼は花さんからの手紙がきて喜んでいる。わたしも、偽りでもいいから彼と言葉を交わせるのが嬉しい。誰も損していない。むしろ得じゃないか。
手紙を握る手が強くなっていく。便箋に跡がついてしまってから、自分の過ちに気づいた。
「ごめんなさい」
傷跡みたいなシワがついた手紙を、必死に指先で撫でる。手紙が元通りになってくれない。一度つけてしまった傷が、戻ってくれない。わたしは怖くなって手紙から目を背けた。手紙を出来るだけ丁寧に鞄に戻す。それから、鞄にしまっておにぎりを食べた。いつの間にか氷みたいに冷たくなった米の塊が、喉を通って体に入ってくる。心まで冷めてしまいそうだ。
「ごめんなさい。こんなことをするつもりじゃなかったの」
もう一度、息を吐く。うさぎみたいに真っ白な息だ。
「寂しいな」
降り始めた雨みたいに、ポツリと呟いた。誰も聞いてくれやしない。彼さえも。
この日からも、彼とは何度も手紙を交わした。花さんの言葉や筆跡を真似るのにもうまくなってきていた。最初は週に一回のやりとりだったが、次第に増えていった。関係は偽りであっても、わたしの心は本物だった。愛の言葉を使う度に、わたしの心が彼に心と溶け合っていくのがわかった。彼も、手紙を重ねるごとに元気になっていたと思う。なんてことない冗談を時折混ぜてくれるようになった。ただ同時に、花さんとの過去の思い出も語るようになった。
身を焦がすほどの嫉妬はなかった。けれど、わたしは良い気分ではないのだろう。花さんと彼の甘い記憶に触れる度に、心に擦り傷ができていく気がした。構うほどのものじゃないけど、確かに傷だ。
一番難しかったのは、この思い出に話を合わせることだった。わたしは花さんじゃない。だから、何にも知らない。花さんとの思い出の中で笑う彼の声も、仕草も知らない。花さんが温かく笑う姿も、想像ができない。
こういう時は、心を冷凍庫に入れるようにして、何も感じず返事を書く。きっと彼は気づかないから大丈夫。そう思っていた。
上手くできていると信じて疑わなくなった時だった。町に初雪が降った日だ。彼から手紙が届いた。いつもなら嬉しいはずの手紙を触れても、温かくはなかった。真っ白な封筒が、雪みたいに冷たい。
手紙の書き出しはこうだった。
『君は誰?』
「寒いなあ。指先から凍ってしまいそう」
テーブルに背を向けてベンチに座る。こうすると、町の様子がよくわかるし、空も見やすい。温かい吐息で手を温めてから、ビニール袋に入ったペットボトルを取り出した。
新緑みたいに色づいたお茶だ。赤くなった手で蓋を開けて、一口飲む。
「あったかい」
息を吐くと、真っ白だった。鞄から、手紙を何枚か取り出す。全部、彼からの手紙だ。その時、駅に電車が滑り込んでくる金
属音がした。一両編成のワンマン列車で、ただでさえ少ない乗客は、ほとんどこの駅で降りる。駅の中に足音と、話し声が流れ込んできた。首だけを後ろに向けると、空っぽになった列車が、次の駅へ走っていく姿が見えた。
観光客だ。三十代ほどの男女が六人いる。みんな冬の寒さに耐えられるよう厚着をしている。靴は歩きやすいスニーカーを履いていた。頬が、寒さで桃みたいな色に染まっている。
「寒いねえ」とポニーテールの女性が言った。
「宿場町までどれくらいだろう」精悍な顔つきの男性が言った。
「三十分ってポスターに書いてあるみたいだわ」髪にウェーブがかかった女性が言った。
みんな楽しそうだ。わたしと同じだ。いや、どうだろう。
男女の集団は、この町になんの興味も示さずに歩いていってしまった。六つの足音が、遠くに行ってしまう。わたしといえば、どこにも行かず、ここに取り残されている。でも、わたしには彼からの手紙がある。
わたしは、緩んでしまう頬をそのままに、手紙を開けた。もう何度も読んでいる。彼から花さんに向けた愛の言葉の数々だ。
ただ、彼が書いた言葉の先に花さんはいない。花さんになりすましたわたしだ。わたしも、彼に愛の言葉を送っていた。なんて書けばいいかわからなかったけれど、花さんが選びそうな言葉ならわかる。
目の前の道路を、原付に乗った警察官が通り過ぎていく。視線が合って、小さく頭を下げた。
彼は今、泣き止んでくれているだろうか。こんな方法しか思いつかなかったけれど、初めてしまったものは仕方がない。わたしの中で、雪が溶けていくみたいな心触りがする。草花が芽吹くのを見た時みたいな温かさがある。これはきっと本物だ。そうであってほしい。
彼は花さんからの手紙がきて喜んでいる。わたしも、偽りでもいいから彼と言葉を交わせるのが嬉しい。誰も損していない。むしろ得じゃないか。
手紙を握る手が強くなっていく。便箋に跡がついてしまってから、自分の過ちに気づいた。
「ごめんなさい」
傷跡みたいなシワがついた手紙を、必死に指先で撫でる。手紙が元通りになってくれない。一度つけてしまった傷が、戻ってくれない。わたしは怖くなって手紙から目を背けた。手紙を出来るだけ丁寧に鞄に戻す。それから、鞄にしまっておにぎりを食べた。いつの間にか氷みたいに冷たくなった米の塊が、喉を通って体に入ってくる。心まで冷めてしまいそうだ。
「ごめんなさい。こんなことをするつもりじゃなかったの」
もう一度、息を吐く。うさぎみたいに真っ白な息だ。
「寂しいな」
降り始めた雨みたいに、ポツリと呟いた。誰も聞いてくれやしない。彼さえも。
この日からも、彼とは何度も手紙を交わした。花さんの言葉や筆跡を真似るのにもうまくなってきていた。最初は週に一回のやりとりだったが、次第に増えていった。関係は偽りであっても、わたしの心は本物だった。愛の言葉を使う度に、わたしの心が彼に心と溶け合っていくのがわかった。彼も、手紙を重ねるごとに元気になっていたと思う。なんてことない冗談を時折混ぜてくれるようになった。ただ同時に、花さんとの過去の思い出も語るようになった。
身を焦がすほどの嫉妬はなかった。けれど、わたしは良い気分ではないのだろう。花さんと彼の甘い記憶に触れる度に、心に擦り傷ができていく気がした。構うほどのものじゃないけど、確かに傷だ。
一番難しかったのは、この思い出に話を合わせることだった。わたしは花さんじゃない。だから、何にも知らない。花さんとの思い出の中で笑う彼の声も、仕草も知らない。花さんが温かく笑う姿も、想像ができない。
こういう時は、心を冷凍庫に入れるようにして、何も感じず返事を書く。きっと彼は気づかないから大丈夫。そう思っていた。
上手くできていると信じて疑わなくなった時だった。町に初雪が降った日だ。彼から手紙が届いた。いつもなら嬉しいはずの手紙を触れても、温かくはなかった。真っ白な封筒が、雪みたいに冷たい。
手紙の書き出しはこうだった。
『君は誰?』