ホウセンカ
「貴方に、絵を描き下ろしてほしいの」

 ビジネスと言うからには、絵に関することだろうとは思っていた。
 スミレはバッグからクリアファイルを取り出して、“企画概要”と書かれた書類をオレに見せる。そこには、浅尾瑛士の名前があった。

「来年、うちの主催で浅尾瑛士の個展を開くの。海外のコレクターが所有している作品も多いから、ここ1年はいろいろな所を飛び回って交渉していたんだけど、その甲斐もあって選りすぐりの絵が集まる予定よ」

 枠にとらわれない独創的な技法で描く浅尾瑛士の日本画は、海外にも多くのファンを持っている。これまで世界中で個展が開かれていたし、国内でも数年に一度は新聞社などが主催していた。
 
「浅尾瑛士の個展なのに、なんでオレが描くんだよ」
「決まってるでしょ。浅尾瑛士の息子で、藝大生というブランドがあるからよ。だから貴方の絵も1点展示して、新聞にインタビューを掲載するの。しかも会場は美術館じゃなくて百貨店。普段アートに触れる機会がない人にも、浅尾桔平の名前を知ってもらうチャンスよ」

 どうやら、これを企画したのはスミレのようだ。まさかオレの名前を売ることが目的なのか。
 
「お父さんの名前を利用するのは嫌?」
「分かってて訊くな」
「相変わらず甘いのね。貴方はまだ学生だから、そんなことを言っていられるのよ。アートの世界もビジネスなの。どれだけ優れた才能があっても、日の目を見ることなく潰れていくアーティストは五万といる。いくら綺麗事を並べ立てたって、才能だけでは生きていけないのが現実よ。それぐらい、分かってるでしょ?」

 分かっている。分かってはいるが、綺麗事ぐらい言わせてほしいという青臭い気持ちもあった。スミレは、オレのそういう性格も理解しているはずだ。
 
「でも貴方は、そもそものスタート地点が人と違う。生まれた時から、多くの武器を手にしているの。それを最大限利用しなくてどうするのよ」
「オレは別に、有名になりたいわけじゃねぇよ」
「じゃあどうして、浅尾を名乗っているの。貴方がその名前を選んだはずでしょ」

 遠慮気味に、店員がミックスジュースを運んできた。険悪な雰囲気に見えたようだ。

「人に見えないところでいくら吠えても、誰にも見向きもされない。浅尾瑛士の息子として生きていくと決めたのなら、その名前を利用して世に出てから、自分自身を周りに認めさせなさいよ。それができないのなら、理想の絵なんて戯言を言わないで」

 スミレの言うことは、いつも正しい。ただ、この正論が昔のオレを追い詰めていった。
< 342 / 408 >

この作品をシェア

pagetop