ホウセンカ
「決して苦しめたいわけじゃないの。桔平は私を恨んでいるだろうから、そうは思えないかもしれないけど」
「そんなことない!」

 反射的に大きな声を出してしまった。だけど店内はザワザワしているから、こちらを気にする人はいない。
 スミレさんは、切れ長の目を少しだけ見開いた。

「桔平くんは、誰かを恨んだりするような人じゃない。スミレさんのこと、ずっと心配していたと思います」

 言いながら、スミレさんとの過去を話してくれた時の顔が浮かぶ。あれは、恨んでる表情じゃない。
 桔平くんの心にあるのは、スミレさんを受け入れてあげられなかった後悔と自分への嫌悪。ただひたすら、自分を責めているだけなんだと思った。

「恨んでるなんて……絶対ない……そんなこと、言わないであげてください……」

 なんでここで涙が出てくるんだろう。胸の痛みが増してくる。どういう感情なのか、自分でも分からない。

 ただ、桔平くんの純粋な気持ちを誤解されたくなかった。スミレさんに抱いていた、とても真っ直ぐな愛情を。
 そうじゃないと報われないでしょ。お互いに愛し合って過ごした時間が、苦しいだけの思い出になっちゃうでしょ。そんなのは、悲しすぎるじゃない。

「……そうだった。桔平って、そういう性格だったわね。優しすぎて不器用で……自分で自分を苦しめてばかりで……」

 独り言のように呟いて、スミレさんが目を伏せた。やっぱりスミレさんも、桔平くんを大切に思っていたんだろうな。

 ううん、今でもそうなんだ。この表情を見れば分かるもん。ただ桔平くんの才能に惚れ込んでいるだけじゃないってこと。
 スミレさんが別れを選んだのは、きっと桔平くんのため。自分が傍にいたら、桔平くん自身が求める理想の絵を描けないと思ったからなのかもしれない。

 一瞬目を閉じて、何かを振り払うようにスミレさんが頭を軽く振る。そして再び目を開けた時には、もう前を向いていた。

「だけど、どこかで殻を破らないといけない。人それぞれ時期があるでしょ。桔平の場合は、今がそうだと思ってる。誰よりも高く飛べるだけの風は、そう何度も吹くものじゃないわ」

 確かに、そうなのかもしれない。まだ若いからなんて思っていたけれど、この世界で年齢は関係ないんだ。そしてチャンスは自分で掴むしかない。

 桔平くんの気持ちはどうなんだろう。世の中に認められたい、評価されたいとは思っていない。でも絵を描き続けるには、周りから認められないといけないことも分かっている。
 他人の批評を気にせず理想の絵を追求していきたい気持ちと、画家として生活するためには世に出る必要があるという事実。その間で葛藤しているようにも見えた。

 だからスミレさんは、光が当たる場所へ桔平くんを引きずり出そうとしている。それが必ず、桔平くんのためになると信じて。
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