ホウセンカ
 そうして1ヶ月が経った頃、奇跡的にいい感じの部屋が見つかって、無事に契約。自宅から徒歩3分という抜群の立地です。
 ほとんど私が探していたから桔平くんに謝られたけれど、部屋が見つかった時にとても喜んでくれたから、ものすごく達成感があった。

 桔平くんは大学院での制作に加えてスミレさんや個展に関わる人たちとの打ち合わせもあって、とにかくいろいろと忙しい。桔平くんの誕生日の日も帰ってくるのが遅くて、まともにお祝いできなかった。

 絵を描く以外にもやることが多いのは、桔平くんにとってストレスでしかないと思う。それでもスミレさんに任せると言った以上、求められたことに応えている。

「オレと父さんが一緒に写った写真ねぇのかって言われたよ。新聞に載せたいらしい」

 ある日、疲れた顔で帰宅すると、桔平くんが盛大にため息をついた。

「写真……あるの?」
「分かんねぇから、母さんに連絡する。はぁ、マジで客寄せパンダだな。分かってたけどさ」

 個展を開くのは慈善事業じゃない。当然ながら、利益を生み出さなければ赤字になってしまう。多くの来場者が訪れて、図録やグッズの売れ行きも好調。そうならないと、成功したとは言えない。

 スミレさんだけじゃなく、たくさんの人が関わるプロジェクトだから、桔平くんにかかるプレッシャーも相当なもの。だけど、それが画家として生計を立てるということなのかもしれない。

 そんな中、5月の連休中に画材をアトリエへと運びこんだ。

 日本画の道具は、とてもたくさんある。例えば(にかわ)という絵具を紙に定着させる接着剤を溶かす時に使う膠鍋、電熱器、膠さじ、水温計。
 そして筆だけでも平筆、則妙筆(そくみょうふで)削用筆(さくようふで)面相筆(めんそうふで)隈取筆(くまどりふで)などなど、種類が豊富。

 そのほかにも岩絵具を細かく砕くための乳鉢とか絵皿とか水差しとか、細々した道具がたくさん。さらに膠水を保管するためには冷蔵庫もいる。家電量販店で85Lの小さな冷蔵庫を買って、やっと桔平くんのアトリエが完成した。

 それから桔平くんは、学校からアトリエへ直行して夜遅くに帰宅するという日が続いた。

 まだどんな絵を描くのかを練っている段階らしくて、これまで撮り溜めた写真や過去の絵を眺めながら、いろいろと考えているみたい。

 きっと必死なんだと思う。当たり前だよね。桔平くんは今、とてつもない重圧と戦っているんだから。描き始めたら集中できるかもしれないけれど、それまでは苦しいんだろうな。

 個展のコンセプトは“普遍の美”だとスミレさんが言っていた。つまりすべてのものに共通する美、そして時代や国に関係なく誰もが感じる美。浅尾瑛士さんが描いていた世界を表現するのに、ピッタリな言葉だと思った。
 そこに桔平くんが描く“普遍の美”が加わる。想像するだけで、鳥肌が立った。
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