ホウセンカ
 背中を追いかけ続けていた。会いたくて会いたくて、ずっと描き続けてきた。

 でも、もう会えないと思った。父に近づけるような絵を描くことなどできない。どんなに足掻いても苦しんでも、一度黒に染まってしまった心は、二度と元に戻ることはないと悟ったからだ。

 それなのに父は……父さんは、ここにいてくれた。オレが来るのを、この鎌倉の家で待ってくれていた。オレにはまだ、この花を美しいと思う心がある。そのことを教えてくれるために。

 目元を拭おうとした時、愛茉がオレの両手を力強く握ってきた。

「いいの」

 涙に濡れた瞳で真っ直ぐオレを見つめる。そして、柔らかく微笑んだ。

「いいんだよ」

 まるで、小さな子供を宥めているようだ。
 父さんと同じような温かい手。こんなに小さいのに、オレを包み込んでくる。ただそれだけで、どうしてこんなにも心が満たされるのか。

 もうなんの涙なのか分からない。形容しがたい感情が、とめどなく溢れる。

 今のオレは過去最高に情けない顔をしているんだろうな。大の男が、言葉が出てこないほど泣くなんて。
 それでも、止められない。愛茉と手を握り合ったまま、オレは5歳の子供のように涙を流し続けた。

「……父さんが、好きな花なんだよ」

 ようやく絞り出した声は、笑えるほど震えていた。
 
「そっか。きっと、このお花がここに呼んでくれたんだね」

 愛茉が突然、鎌倉へ行きたいと言い出した理由は分からない。もしかすると、オレの代わりに父さんの呼びかけを受け取ってくれたのかもしれないと思った。

 何故か急に、ある場所に行かなければならないと感じる。その感覚は、オレも何度か経験してきた。“何か”に呼ばれている。非現実的な話ではあるが、本当にそう思うことがあった。

 ここにいる父さんが、オレを連れてこいと愛茉を呼んだ。あまりに情けない姿を見かねたのだろう。迷走して同じところをグルグルと回った挙句、絵を描く意味を見失ってしまった不甲斐ない息子。まったくもって、合わせる顔がない。

 それでも今のオレには、父さんに胸を張って言えることが、ひとつだけある。

「……愛茉」
「なーに?」
「鼻、チーンしたい。ティッシュちょうだい」
「ほらぁ。やっぱり、大泣きすると鼻水出るでしょ?はい、これでチーンして」

 明るく笑いながら、スヌーピーのケースに入れたポケットティッシュをポシェットから取り出す。愛茉はオレにティッシュを数枚渡してから、自分も鼻をかんだ。

 何をやっているんだろうな。こんなに綺麗な花の前で、2人して盛大に鼻水を垂らして。滑稽すぎて、今度は笑えてきた。
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