ホウセンカ
 オレがこの世界で一番美しいと思うもの、そして一番大切なもの。それを父さんに見せられて良かった。

 愛茉が笑顔で見上げてくる。オレと一緒に、すっかり痩せてしまったようだ。本当に不甲斐ないな。でも、もう大丈夫だ。

 これから先、苦しむことはいくらでもあるだろう。ここ数ヶ月の苦悩など比ではないほどの出来事も起こるはずだ。それでも愛茉が隣にいてくれるのなら、何度枯れても、また花を咲かせることができる。
 ここに来て、そのことを強く感じた。

「あっ」

 愛茉が声を上げたのとほぼ同時に、腹の虫が鳴く。そして音の出どころをさすりながら、頬を赤らめた。

「えへへ、お腹鳴っちゃった……」

 ムードもへったくれもないな。ここは感動的なシーンじゃないのか。
 ふいに、父さんが豪快に笑う姿が脳裏に浮かぶ。お前らはそんなもんだろ。そう言っている声が、風に乗って聞こえた気がした。
 
「オレも腹減ったな。よし、鎌倉丼食いに行こうぜ」
「鎌倉丼?なにそれ」
「エビの天ぷらだったり卵とじだったりがのった丼。鎌倉駅の近くにウマい店があるから、そこ行こう」
「行きたい!食べたい!」

 揺れる紅い花に見送られながら、愛茉と手を繋いで歩き出す。父さんと何度も歩いた、この道を。

 オレは弱虫だから、ひとりでは歩けないんだよ。それなのに繋いだ手が離れてしまうことに怯えて、人と距離をとっていた。

 失うくらいなら、最初から孤独な方がいい。そう言い聞かせて強がっていた、ただの子供だった。オレに手を差し伸べてくれる人は、たくさんいたのに。

 だけど失う痛みと怖さを抱えていたからこそ、愛茉に惹かれたんだな。あまりに不完全で美しい、この花に。

「わーい!大きいエビ天!」

 初めての鎌倉丼を前に、愛茉が目を輝かせる。父さんと一緒に行っていた店は、当時のままだった。

「んー!おいひい!」
 
 また少し太らせないといけないし、今日はたんまり食べてもらおう。

 愛茉が幸せそうに咀嚼する顔を見ると、食事が何倍も美味くなる。オレもしっかり栄養を摂って、体力を戻さないとな。

 どこへ行っても、父さんとの思い出が鮮やかに蘇る。やはり鎌倉が、オレの帰る場所だ。

 雪が降ったら、また来よう。あの美しい景色を愛茉と一緒に観たい。そして春になれば、母さんたちも連れてみんなで花見をしよう。きっと、父さんも喜んでくれるはずだ。

 そんな事を考えながら、その日は久しぶりに愛茉と手を握り合って眠りについた。
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