追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
1.追放された調香師
エイレーネ王国の工房の中で最も大きな力を持つ、カルディナーレ香水工房。
その権威を示すような豪華絢爛な造りの工房の中で、一人の女性が危機に面していた。
「お前はクビだ! 荷物をまとめてさっさと出て行け!」
カルディナーレ香水工房の工房長であるアベラルドが吐き捨てた言葉に、彼の部下のフレイヤは打ちのめされた。言い返すこともできず、新緑を思わせる若葉色の目を見開いたまま、固まってしまったのだった。
フレイヤ・ルアルディはしがない平民の調香師だ。
性格は大人しく、目立つことが苦手だから洒落っ気のない格好に徹底している。波打つ榛色の髪はいつも頭の後ろで一つに結わえており、服は暗い色ばかりだ。
それでもアベラルドは機嫌が悪い時は、多くの部下の中からフレイヤを見つけ出しては八つ当たりするのだった。
すらりと背が高いフレイヤは、アベラルドに罵られる度に体を縮こまらせている。いつしか彼の金色の髪や栗色の目が見える度に怯えるようになり、気づけば猫背気味になってしまったのだった。
フレイヤの実家はここ、エイレーネ王国の地方領にある薬草雑貨店を営んでおり、今はフレイヤと八つ年が離れた姉のテミスと彼女に婿入りした義兄が切り盛りしている。
フレイヤにとってテミスは唯一無二の家族だ。両親はフレイヤが十歳の頃に事故で他界しており、それ以来はテミスに育てられてきた。
優しくて溌剌としているテミスはフレイヤの憧れの存在でもあるが、それと同時に元恋敵でもあった。なぜならテミスの夫はフレイヤの長年の片思いの相手だったのだ。
彼女たちと一緒にいることが気まずくなったフレイヤは十六歳になる年に高等教育機関を卒業し、王都に出て調香師としての修業を積んだ。そうして四年の月日を経て、昨年ようやく一人前と認められたばかり。
自分の仕事で誰かを笑顔にしたい一心で、ひよっこながらも懸命に取り組んできた。
寝る間を惜しんで香りの効能を学び、休みの日も研究に勤しみ、気づけば二十歳になっていた。
恋愛も結婚も諦めて仕事に打ち込んできたフレイヤにとってこの解雇は寝耳に水だ。
――発端は、王妃がフレイヤの香水を気に入り、この香水を作ったものを専属の調香師にしたいと言ったからだった。
工房長の自分ではなく、部下のフレイヤの香水が評価されて嫉妬したのだ。
アベラルドはフレイヤが自分を出し抜こうとしてわざと注文の詳細を知らせなかったと主張するのだが、実際にはフレイヤに非はなく、偶然が重なって彼女の香水が賞賛されたのである。
そもそも注文に来たのは王妃ではなく、その侍女だ。
王妃は今、実の息子である第二王子が竜討伐へ行った際に竜の呪いを患い、目を覚まさないため憔悴している。そんな王妃の心を少しでも癒したいと思った侍女が、王妃に贈る香水を注文したのだ。
通常は高位貴族や王族が購入する香水は工房長のアベラルドが自ら調香する。というのも、二十三歳で父親から工房長の座を受け継いだアベラルドは自分の名声を上げるのに忙しく、上顧客は全て自分に回すよう部下に指示している。
彼もまた平民だが、父親は一代限りの男爵位を授けられており、自分も功績をあげて男爵位を授かろうと躍起になっている。しかしエイレーネ王国に輸入された異国の医療品である<香り水>を化粧品である<香水>へと進化させて貴族文化の発展に貢献した父親の功績を超えられず、いつも苛立っては部下たちに当たり散らしているのだ。
今回の件も完全に八つ当たりだ。なんせアベラルドは、注文に来た王妃の侍女の正体を見破られなかったのだ。
そうして、自分の客ではないと思ったアベラルドはフレイヤに対応させたのだった。だから今回の事態は客の正体を見抜けなかったアベラルドに非があるのだが、プライドが高い彼はそれを認めようとしない。
「あ~あ、妬まれていて可哀想」
「仕方がないさ。工房長を押し退けて王妃殿下に香水を献上したんだからさ」
「工房長の顔を立てないからこうなるのよ。ここでクビにされたら、もう二度と調香師にはなれないわね」
同僚たちが囁く心無い言葉に胸を抉られ、唇を噛み締めた。
(私たちはお客様のために香水を作るのよ。工房長のためではないわ)
これまでもアベラルドからの理不尽な言いがかりに耐えてこられたのは、その信念を支えにしていたからだ。
(悪いことなんて何もしていないのに……?)
工房が不利益を被るようなことは何一つとしてしていないのに酷い仕打ちだ。
悔しさに握りしめた手は白くなっており、小さく震える。
言いようのない怒りや悲しみが内側で暴れて、フレイヤの心をボロボロにしていく。
ふとすれば涙が出そうな状態だが、意地で堪えた。
理不尽な解雇への怒りが動いて、ここで泣いては相手の思うつぼだと、フレイヤに囁いたのだ。
「……今まで、お世話になりました」
か細く掠れた声でやっと呟くと、自分の仕事場にある荷物をまとめ、逃げるように工房を出た。
「いきなり解雇だなんてあんまりだわ……」
帰路につくフレイヤの目に涙が滲ぶ。
限界まで溢れた涙が、零れて頬を伝った。
元同僚たちは誰も、フレイヤが泣いていたことなんて知らない。
明日は我が身と保身で精一杯の彼らは、アベラルドの機嫌をとるので忙しいのだ。
「これから、どうなっちゃうのかな……」
王国随一の工房を追い出された自分を雇ってくれる工房はあるのだろうか。
厄介なことに、アベラルドの妻の実家は平民だが名のある商家だ。だから彼の不興を買うと、妻の伝手を使って香水の材料の仕入れを止められる恐れがあると噂されている。
そのような理由があり、王都の香水工房の調香師たちはアベラルドに強く出られないでいるのだ。
(まだ調香師の道が途絶えたわけじゃないわ。明日、他の工房へ行ってみよう……)
荷物で両手が塞がっているフレイヤは、服の袖口で涙を拭う。
まだ涙の痕が残っているフレイヤの頬を、風が優しく撫でた。
その権威を示すような豪華絢爛な造りの工房の中で、一人の女性が危機に面していた。
「お前はクビだ! 荷物をまとめてさっさと出て行け!」
カルディナーレ香水工房の工房長であるアベラルドが吐き捨てた言葉に、彼の部下のフレイヤは打ちのめされた。言い返すこともできず、新緑を思わせる若葉色の目を見開いたまま、固まってしまったのだった。
フレイヤ・ルアルディはしがない平民の調香師だ。
性格は大人しく、目立つことが苦手だから洒落っ気のない格好に徹底している。波打つ榛色の髪はいつも頭の後ろで一つに結わえており、服は暗い色ばかりだ。
それでもアベラルドは機嫌が悪い時は、多くの部下の中からフレイヤを見つけ出しては八つ当たりするのだった。
すらりと背が高いフレイヤは、アベラルドに罵られる度に体を縮こまらせている。いつしか彼の金色の髪や栗色の目が見える度に怯えるようになり、気づけば猫背気味になってしまったのだった。
フレイヤの実家はここ、エイレーネ王国の地方領にある薬草雑貨店を営んでおり、今はフレイヤと八つ年が離れた姉のテミスと彼女に婿入りした義兄が切り盛りしている。
フレイヤにとってテミスは唯一無二の家族だ。両親はフレイヤが十歳の頃に事故で他界しており、それ以来はテミスに育てられてきた。
優しくて溌剌としているテミスはフレイヤの憧れの存在でもあるが、それと同時に元恋敵でもあった。なぜならテミスの夫はフレイヤの長年の片思いの相手だったのだ。
彼女たちと一緒にいることが気まずくなったフレイヤは十六歳になる年に高等教育機関を卒業し、王都に出て調香師としての修業を積んだ。そうして四年の月日を経て、昨年ようやく一人前と認められたばかり。
自分の仕事で誰かを笑顔にしたい一心で、ひよっこながらも懸命に取り組んできた。
寝る間を惜しんで香りの効能を学び、休みの日も研究に勤しみ、気づけば二十歳になっていた。
恋愛も結婚も諦めて仕事に打ち込んできたフレイヤにとってこの解雇は寝耳に水だ。
――発端は、王妃がフレイヤの香水を気に入り、この香水を作ったものを専属の調香師にしたいと言ったからだった。
工房長の自分ではなく、部下のフレイヤの香水が評価されて嫉妬したのだ。
アベラルドはフレイヤが自分を出し抜こうとしてわざと注文の詳細を知らせなかったと主張するのだが、実際にはフレイヤに非はなく、偶然が重なって彼女の香水が賞賛されたのである。
そもそも注文に来たのは王妃ではなく、その侍女だ。
王妃は今、実の息子である第二王子が竜討伐へ行った際に竜の呪いを患い、目を覚まさないため憔悴している。そんな王妃の心を少しでも癒したいと思った侍女が、王妃に贈る香水を注文したのだ。
通常は高位貴族や王族が購入する香水は工房長のアベラルドが自ら調香する。というのも、二十三歳で父親から工房長の座を受け継いだアベラルドは自分の名声を上げるのに忙しく、上顧客は全て自分に回すよう部下に指示している。
彼もまた平民だが、父親は一代限りの男爵位を授けられており、自分も功績をあげて男爵位を授かろうと躍起になっている。しかしエイレーネ王国に輸入された異国の医療品である<香り水>を化粧品である<香水>へと進化させて貴族文化の発展に貢献した父親の功績を超えられず、いつも苛立っては部下たちに当たり散らしているのだ。
今回の件も完全に八つ当たりだ。なんせアベラルドは、注文に来た王妃の侍女の正体を見破られなかったのだ。
そうして、自分の客ではないと思ったアベラルドはフレイヤに対応させたのだった。だから今回の事態は客の正体を見抜けなかったアベラルドに非があるのだが、プライドが高い彼はそれを認めようとしない。
「あ~あ、妬まれていて可哀想」
「仕方がないさ。工房長を押し退けて王妃殿下に香水を献上したんだからさ」
「工房長の顔を立てないからこうなるのよ。ここでクビにされたら、もう二度と調香師にはなれないわね」
同僚たちが囁く心無い言葉に胸を抉られ、唇を噛み締めた。
(私たちはお客様のために香水を作るのよ。工房長のためではないわ)
これまでもアベラルドからの理不尽な言いがかりに耐えてこられたのは、その信念を支えにしていたからだ。
(悪いことなんて何もしていないのに……?)
工房が不利益を被るようなことは何一つとしてしていないのに酷い仕打ちだ。
悔しさに握りしめた手は白くなっており、小さく震える。
言いようのない怒りや悲しみが内側で暴れて、フレイヤの心をボロボロにしていく。
ふとすれば涙が出そうな状態だが、意地で堪えた。
理不尽な解雇への怒りが動いて、ここで泣いては相手の思うつぼだと、フレイヤに囁いたのだ。
「……今まで、お世話になりました」
か細く掠れた声でやっと呟くと、自分の仕事場にある荷物をまとめ、逃げるように工房を出た。
「いきなり解雇だなんてあんまりだわ……」
帰路につくフレイヤの目に涙が滲ぶ。
限界まで溢れた涙が、零れて頬を伝った。
元同僚たちは誰も、フレイヤが泣いていたことなんて知らない。
明日は我が身と保身で精一杯の彼らは、アベラルドの機嫌をとるので忙しいのだ。
「これから、どうなっちゃうのかな……」
王国随一の工房を追い出された自分を雇ってくれる工房はあるのだろうか。
厄介なことに、アベラルドの妻の実家は平民だが名のある商家だ。だから彼の不興を買うと、妻の伝手を使って香水の材料の仕入れを止められる恐れがあると噂されている。
そのような理由があり、王都の香水工房の調香師たちはアベラルドに強く出られないでいるのだ。
(まだ調香師の道が途絶えたわけじゃないわ。明日、他の工房へ行ってみよう……)
荷物で両手が塞がっているフレイヤは、服の袖口で涙を拭う。
まだ涙の痕が残っているフレイヤの頬を、風が優しく撫でた。
< 1 / 89 >