追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
10.幼馴染に相談
シルヴェリオが菓子店へ行ってフレイヤへの賄賂を買っていた頃、フレイヤは昼休憩から戻ってきたテミスとチェルソに、シルヴェリオからの頼みごとについて話していた。
フレイヤが調香師に戻れると聞いた二人は、揃って喜んでくれる。
「良かったな、フレイちゃん。これでまた調香師に戻れるな」
「これ以上ないくらい好条件だわ。シルヴェリオ様っていい人なのね!」
チェルソもテミスも、フレイヤがシルヴェリオの専属調香師になることに賛同している。
彼らの目から見てもシルヴェリオの提案は魅力的だし、シルヴェリオは信頼できる人間のようだ。
「う、うん。そうなの……かも……」
曖昧に微笑むフレイヤは、胸の内に渦巻く迷いを持て余している。
シルヴェリオを――自分を雇おうとしている権力者を信じるには、まだ心の準備ができていないのだ。
「フレイ、あなた……ううん、何でもないわ」
フレイヤの言葉と表情からその想いを察したテミスは、フレイヤの背中を優しく撫でた。
「せっかくシルヴェリオ様から考える時間を貰ったことなんだし、ゆっくり考えるといいわ。――そうだ、お昼からはもっとお客さんが減るから、昼食の後は森を散歩してみたら?」
「でも、それじゃあ仕事が……」
「ハルモニアにまだ会っていないでしょう? きっとフレイの帰りを待ってくれているわよ。ついでに、今年の秋はいつもより多めにナナカマドの実を買いたいと伝えてちょうだい。昨年の冬は喉風邪が流行ったから、うがい薬用に買う人が多くて在庫が少ないの」
「わかった。ハルモニアに言っておくね」
ハルモニアはフレイヤとテミスの知り合いの、半人半馬族の青年だ。年はフレイヤと同じ二十歳で、フレイヤたちとは子どもの頃から付き合いがある。
エイレーネ王国には半人半馬族の縄張りが点在している。
彼らと人間は不可侵条約を結んでおり、その縄張りがある場所を人間が所有してはならない。しかし出入りは自由だから、近くに住む人間の中には、彼らの住処にお邪魔することもある。
半人半馬族との関係は良好で、彼らがハーブや薬草や珍しい植物を採集してきてくれる代わりに、人間は薬や知識、そして食べ物や魔道具を対価に渡している。また、半人半馬族は精霊との繋がりが強いため、精霊と人間の橋渡し役も担ってくれているのだ。
人外の彼らに友好的な人間もいれば、そうでない者もいる。
フレイヤはというと、ハルモニアとは人間の友人と変わりなく親しくしている。フレイヤの両親が薬草雑貨店に並べる薬草やハーブを彼らから買い付けていたこともあり、幼い頃からハルモニアや彼の家族との交流がある。
フレイヤとハルモニアは一緒に遊んだり、薬草について学んだ。ハルモニアの方がフレイヤよりも薬草に詳しく、魔物が苦手とする薬草についての知識などを教えてくれたのだった。
優しいハルモニアはフレイヤの善き相談相手でもあり、悩みごとがあるといつも彼のもとを訪ねていたのだ。
「そういえば、ハルモニアは群れの長になったんだよね。お祝いしてくる」
「ええ、そうしてあげて」
昨年、テミスから届いた手紙を読んだフレイヤは、ハルモニアがコルティノーヴィス領近辺の森に住む半人半馬族の群れの長になったと知った。
半人半馬族の中でも強く聡明なハルモニアは群れの仲間たちから信頼されており、長に選ばれたらしい。
フレイヤは急いで昼食を済ませると、バスケットの中に二人分の皿とフォークとグラス、そしてリンゴのジュースが入った瓶を詰める。
「さて、お祝いのケーキを買いに行こうかな」
そう言い、自宅兼店から出てお気に入りの菓子店へと向かった。
***
ロードンの街を歩くフレイヤは、お菓子の香りを嗅ぎつけると、うっとりとした表情になる。
お菓子は味も匂いも好きだ。お菓子の香りはいつだって、フレイヤを幸せな気持ちにさせてくれる。
焼けたてのスポンジや、ふわふわに泡立てられたクリームから香るバニラビーンズ、イチゴと砂糖と一緒に煮詰めている鍋から零れる甘ったるい匂いの湯気――。
それらは全て、両親がまだ生きていた頃の思い出に繋がっているのだ。
両親は定休日には二人で台所に立ち、手作りのお菓子を作ってくれた。
フレイヤとテミスは彼らが作るお菓子をいつも楽しみにしており、定休日の前日には二人で明日のお菓子の予想をしていたのだった。
甘い匂いを辿っていたフレイヤは、やがて行きつけの店に辿り着いた。
ここはロードンで一番人気のある店で、フレイヤの両親はいいことがあるといつもここでケーキを買っていたのだ。
フレイヤは両親に倣い、ハルモニアの長就任祝いのケーキをここで買うことにしたのだった。
「こんにちは――って、あれ……?」
店の扉を開いたフレイヤは、見覚えのある焦げ茶色の長い外套を羽織っている人物が店内にいることに気づいた。視線を動かしてそのフードの中を注視すると、紫色の髪が見える。そのさらに上へと視線を移動させると――深い青色の目と目が合った。
(シ、シルヴェリオ様だ!)
驚きのあまり、その場で飛び上がった。床から拳三つ分くらいは体が浮いただろう。
よもや二度も平民の店で彼に会うとは思わなかった。完全に油断していたこともあり、心臓が早鐘を打ち続けている。
「……また会ったな」
そう言い、シルヴェリオがフレイヤに一歩近づく。彼の動きに合わせて、フレイヤは一歩後ろに下がった。
先ほどの返事を聞かれるかもしれない。
そう早とちりしたフレイヤは、逃げたい気持ちでいっぱいになった。
「君――」
「ひ、人違いです!」
すっかり混乱していたフレイヤは、シルヴェリオの言葉を遮ると、回れ右をして店を出てしまった。
「待ってくれ――!」
背後に、シルヴェリオの声を聞きながら。
それからフレイヤは店を飛び出してからも足を止めず、森の中に入っていった。気づいた時には、すっかり奥地にまで来てしまっていた。辺りは静かで、街の喧騒は聞こえてこない。どうやら半人半馬族たちのテリトリーに入ったようだ。
立ち止まったフレイヤは、その場にしゃがんで息を整えた。
「ううっ……ケーキを買いたかったのに……」
親友を祝うためにケーキを用意しようとしていたのに、買わずに逃げてしまった。自分の不甲斐なさを呪いたくなる。
「私のバカ……。他のお店に買いに行ったらよかったのに。このままだと、リンゴジュースだけでお祝いになっちゃうよ」
嘆く彼女の耳に、馬の蹄が地面を蹴るような音が聞こえてきた。
顔を上げると、精悍な顔立ちの美丈夫――上半身は筋肉質な人間の体で、下半身は栗毛の馬の体を持っている男の半人半馬族が、フレイヤのもとに駆けて来る姿が見えた。長い黒髪が頭の後ろでひっつめており、彼の動きに合わせてさらさらと靡いている。日に焼けた小麦色の肌によく映える水色の目はやや目尻が下がり気味で柔らかな印象がある。
フレイヤは彼の姿を見ると、パッと表情を輝かせる。
「ハルモニア、久しぶり!」
ハルモニアと呼ばれた半人半馬族は笑顔で手を振り返した。
「フレイの気配を感じ取ったから急いできたよ。――おかえり。待っていたよ」
「ただいま。迎えに来てくれてありがとう」
ハルモニアが両腕を広げてフレイヤを迎える。するとフレイヤはふにゃりと微笑み、ハルモニアの胸の中に飛び込んだ。
幼い頃は無邪気な仔馬のように彼と一緒に走り回ったり、彼の背に乗っていた少女は、離れている間にすっかり大人の女性になってしまった。それでも彼女の心は昔と変わらず優しくて真っ直ぐなまま。人外の彼にも心を開いて接してくれる。
王都へ行ったフレイヤが変わらないまま戻ってきてくれて良かった。
嬉しくなったハルモニアは柔らかく微笑むと、彼女の頭に頬を寄せた。
「そういえば、お姉ちゃんから聞いたよ。ついにハルモニアが長になったんだね。おめでとう!」
「ありがとう。フレイから直接祝ってもらえて嬉しいよ。フレイは調香師に認定されたそうだね。おめでとう。ようやくフレイの夢が叶って嬉しいよ」
「ええと……それが……色々あって……」
フレイヤの若草色の目が揺れ、戸惑いの色が滲む。
ハルモニアはその変化を見逃さなかった。
「浮かない顔をしているよ。何かあったのかい?」
「実は……色々あって、クビにされたの。私が働いていた工房は有名なところだから、そこを辞めさせられてしまうと、他の工房で雇ってもらえないんだ。だから、ロードンに戻ってきたんだけど――」
昨日までは、そうだった。フレイヤの調香師としての道は閉ざされてしまったのだ。しかしシルヴェリオ・コルティノーヴィスがその道を再び開いてくれた。
「今日ね、領主様の弟のシルヴェリオ様が来て、私を専属調香師として雇いたいと言ってくれたの。たぶんこれが、最後の好機なんだと思う。だけど私……迷っているんだ」
「なるほど。何に迷っているんだい?」
「シルヴェリオ様を信じてもいいのかわからない。本当は前の工房長のような性格の人だったらどうしようと思うと、怖くて一歩踏み出せないの。もちろん、できることならもう一度調香師になりたいよ。今までずっと、そのために努力してきたんだもん。……だけど、どうしても弱気になってしまうの」
「……そうか。フレイをここまで傷つけるなんて、カルディナーレ香水工房の工房長を許せないな」
ハルモニアはフレイヤには聞こえないような小さな声でそっと呟いた。
彼にとってフレイヤは大切な親友で――幼い頃から密かに想い続けてきたかけがえのない存在でもある。
そんな彼女の心をボロボロになるまで傷つけた工房長には絶対に復讐をしてやろうと密かに誓ったのだった。
半人半馬族は普段は温厚な性格だが、怒らせるととことん怖い。相手を執念深く追いかけて復讐を遂げる生き物だ。
「それでね、明日には返事をしないといけないんだけど、まだ迷っているの」
「フレイ……」
「進むことも諦めることもできないなんて……、我ながら情けなくて、嫌になっちゃうよ」
フレイヤは眉尻を下げ、力なく笑った。
そんな彼女に励ましの言葉をかけようとしたその時、ハルモニアはこちらに近づいてくる気配を察知した。
――耳を澄ませると、革靴が地面を踏みしめているような音が聞こえてくるから、相手は人間なのだろう。人数は恐らく、一人だ。それくらいなら十分、フレイヤを守れる。
ハルモニアは腕の中にいるフレイヤを抱き寄せ、片手に剣を握る。
たとえ近づいてきているのが人間でも、安全であるとは限らない。もしも盗賊であれば、フレイヤの身に危険が及んでしまう。
次第に足音が近づき、人間の男が二人の目の前に現れた。フレイヤが相手の姿を見て、身を固くしたのが腕から伝わってくる。
「そこの人間、止まりなさい」
ハルモニアが硬い声で命じると、男は動きを止めた。
細身で背が高くしなやかな体躯を持つ、整っている顔立ちの男だ。彼は焦げ茶色の長い外套を着ており、その下には質の良さそうな服を着ている。
道に迷った貴族だろうか。
そう思ったハルモニアが再び声をかける前に、フレイヤの口が微かに動いた。
「シ、シルヴェリオ様……」
そうして、相手の男の名前を呼んだのだった。
フレイヤが調香師に戻れると聞いた二人は、揃って喜んでくれる。
「良かったな、フレイちゃん。これでまた調香師に戻れるな」
「これ以上ないくらい好条件だわ。シルヴェリオ様っていい人なのね!」
チェルソもテミスも、フレイヤがシルヴェリオの専属調香師になることに賛同している。
彼らの目から見てもシルヴェリオの提案は魅力的だし、シルヴェリオは信頼できる人間のようだ。
「う、うん。そうなの……かも……」
曖昧に微笑むフレイヤは、胸の内に渦巻く迷いを持て余している。
シルヴェリオを――自分を雇おうとしている権力者を信じるには、まだ心の準備ができていないのだ。
「フレイ、あなた……ううん、何でもないわ」
フレイヤの言葉と表情からその想いを察したテミスは、フレイヤの背中を優しく撫でた。
「せっかくシルヴェリオ様から考える時間を貰ったことなんだし、ゆっくり考えるといいわ。――そうだ、お昼からはもっとお客さんが減るから、昼食の後は森を散歩してみたら?」
「でも、それじゃあ仕事が……」
「ハルモニアにまだ会っていないでしょう? きっとフレイの帰りを待ってくれているわよ。ついでに、今年の秋はいつもより多めにナナカマドの実を買いたいと伝えてちょうだい。昨年の冬は喉風邪が流行ったから、うがい薬用に買う人が多くて在庫が少ないの」
「わかった。ハルモニアに言っておくね」
ハルモニアはフレイヤとテミスの知り合いの、半人半馬族の青年だ。年はフレイヤと同じ二十歳で、フレイヤたちとは子どもの頃から付き合いがある。
エイレーネ王国には半人半馬族の縄張りが点在している。
彼らと人間は不可侵条約を結んでおり、その縄張りがある場所を人間が所有してはならない。しかし出入りは自由だから、近くに住む人間の中には、彼らの住処にお邪魔することもある。
半人半馬族との関係は良好で、彼らがハーブや薬草や珍しい植物を採集してきてくれる代わりに、人間は薬や知識、そして食べ物や魔道具を対価に渡している。また、半人半馬族は精霊との繋がりが強いため、精霊と人間の橋渡し役も担ってくれているのだ。
人外の彼らに友好的な人間もいれば、そうでない者もいる。
フレイヤはというと、ハルモニアとは人間の友人と変わりなく親しくしている。フレイヤの両親が薬草雑貨店に並べる薬草やハーブを彼らから買い付けていたこともあり、幼い頃からハルモニアや彼の家族との交流がある。
フレイヤとハルモニアは一緒に遊んだり、薬草について学んだ。ハルモニアの方がフレイヤよりも薬草に詳しく、魔物が苦手とする薬草についての知識などを教えてくれたのだった。
優しいハルモニアはフレイヤの善き相談相手でもあり、悩みごとがあるといつも彼のもとを訪ねていたのだ。
「そういえば、ハルモニアは群れの長になったんだよね。お祝いしてくる」
「ええ、そうしてあげて」
昨年、テミスから届いた手紙を読んだフレイヤは、ハルモニアがコルティノーヴィス領近辺の森に住む半人半馬族の群れの長になったと知った。
半人半馬族の中でも強く聡明なハルモニアは群れの仲間たちから信頼されており、長に選ばれたらしい。
フレイヤは急いで昼食を済ませると、バスケットの中に二人分の皿とフォークとグラス、そしてリンゴのジュースが入った瓶を詰める。
「さて、お祝いのケーキを買いに行こうかな」
そう言い、自宅兼店から出てお気に入りの菓子店へと向かった。
***
ロードンの街を歩くフレイヤは、お菓子の香りを嗅ぎつけると、うっとりとした表情になる。
お菓子は味も匂いも好きだ。お菓子の香りはいつだって、フレイヤを幸せな気持ちにさせてくれる。
焼けたてのスポンジや、ふわふわに泡立てられたクリームから香るバニラビーンズ、イチゴと砂糖と一緒に煮詰めている鍋から零れる甘ったるい匂いの湯気――。
それらは全て、両親がまだ生きていた頃の思い出に繋がっているのだ。
両親は定休日には二人で台所に立ち、手作りのお菓子を作ってくれた。
フレイヤとテミスは彼らが作るお菓子をいつも楽しみにしており、定休日の前日には二人で明日のお菓子の予想をしていたのだった。
甘い匂いを辿っていたフレイヤは、やがて行きつけの店に辿り着いた。
ここはロードンで一番人気のある店で、フレイヤの両親はいいことがあるといつもここでケーキを買っていたのだ。
フレイヤは両親に倣い、ハルモニアの長就任祝いのケーキをここで買うことにしたのだった。
「こんにちは――って、あれ……?」
店の扉を開いたフレイヤは、見覚えのある焦げ茶色の長い外套を羽織っている人物が店内にいることに気づいた。視線を動かしてそのフードの中を注視すると、紫色の髪が見える。そのさらに上へと視線を移動させると――深い青色の目と目が合った。
(シ、シルヴェリオ様だ!)
驚きのあまり、その場で飛び上がった。床から拳三つ分くらいは体が浮いただろう。
よもや二度も平民の店で彼に会うとは思わなかった。完全に油断していたこともあり、心臓が早鐘を打ち続けている。
「……また会ったな」
そう言い、シルヴェリオがフレイヤに一歩近づく。彼の動きに合わせて、フレイヤは一歩後ろに下がった。
先ほどの返事を聞かれるかもしれない。
そう早とちりしたフレイヤは、逃げたい気持ちでいっぱいになった。
「君――」
「ひ、人違いです!」
すっかり混乱していたフレイヤは、シルヴェリオの言葉を遮ると、回れ右をして店を出てしまった。
「待ってくれ――!」
背後に、シルヴェリオの声を聞きながら。
それからフレイヤは店を飛び出してからも足を止めず、森の中に入っていった。気づいた時には、すっかり奥地にまで来てしまっていた。辺りは静かで、街の喧騒は聞こえてこない。どうやら半人半馬族たちのテリトリーに入ったようだ。
立ち止まったフレイヤは、その場にしゃがんで息を整えた。
「ううっ……ケーキを買いたかったのに……」
親友を祝うためにケーキを用意しようとしていたのに、買わずに逃げてしまった。自分の不甲斐なさを呪いたくなる。
「私のバカ……。他のお店に買いに行ったらよかったのに。このままだと、リンゴジュースだけでお祝いになっちゃうよ」
嘆く彼女の耳に、馬の蹄が地面を蹴るような音が聞こえてきた。
顔を上げると、精悍な顔立ちの美丈夫――上半身は筋肉質な人間の体で、下半身は栗毛の馬の体を持っている男の半人半馬族が、フレイヤのもとに駆けて来る姿が見えた。長い黒髪が頭の後ろでひっつめており、彼の動きに合わせてさらさらと靡いている。日に焼けた小麦色の肌によく映える水色の目はやや目尻が下がり気味で柔らかな印象がある。
フレイヤは彼の姿を見ると、パッと表情を輝かせる。
「ハルモニア、久しぶり!」
ハルモニアと呼ばれた半人半馬族は笑顔で手を振り返した。
「フレイの気配を感じ取ったから急いできたよ。――おかえり。待っていたよ」
「ただいま。迎えに来てくれてありがとう」
ハルモニアが両腕を広げてフレイヤを迎える。するとフレイヤはふにゃりと微笑み、ハルモニアの胸の中に飛び込んだ。
幼い頃は無邪気な仔馬のように彼と一緒に走り回ったり、彼の背に乗っていた少女は、離れている間にすっかり大人の女性になってしまった。それでも彼女の心は昔と変わらず優しくて真っ直ぐなまま。人外の彼にも心を開いて接してくれる。
王都へ行ったフレイヤが変わらないまま戻ってきてくれて良かった。
嬉しくなったハルモニアは柔らかく微笑むと、彼女の頭に頬を寄せた。
「そういえば、お姉ちゃんから聞いたよ。ついにハルモニアが長になったんだね。おめでとう!」
「ありがとう。フレイから直接祝ってもらえて嬉しいよ。フレイは調香師に認定されたそうだね。おめでとう。ようやくフレイの夢が叶って嬉しいよ」
「ええと……それが……色々あって……」
フレイヤの若草色の目が揺れ、戸惑いの色が滲む。
ハルモニアはその変化を見逃さなかった。
「浮かない顔をしているよ。何かあったのかい?」
「実は……色々あって、クビにされたの。私が働いていた工房は有名なところだから、そこを辞めさせられてしまうと、他の工房で雇ってもらえないんだ。だから、ロードンに戻ってきたんだけど――」
昨日までは、そうだった。フレイヤの調香師としての道は閉ざされてしまったのだ。しかしシルヴェリオ・コルティノーヴィスがその道を再び開いてくれた。
「今日ね、領主様の弟のシルヴェリオ様が来て、私を専属調香師として雇いたいと言ってくれたの。たぶんこれが、最後の好機なんだと思う。だけど私……迷っているんだ」
「なるほど。何に迷っているんだい?」
「シルヴェリオ様を信じてもいいのかわからない。本当は前の工房長のような性格の人だったらどうしようと思うと、怖くて一歩踏み出せないの。もちろん、できることならもう一度調香師になりたいよ。今までずっと、そのために努力してきたんだもん。……だけど、どうしても弱気になってしまうの」
「……そうか。フレイをここまで傷つけるなんて、カルディナーレ香水工房の工房長を許せないな」
ハルモニアはフレイヤには聞こえないような小さな声でそっと呟いた。
彼にとってフレイヤは大切な親友で――幼い頃から密かに想い続けてきたかけがえのない存在でもある。
そんな彼女の心をボロボロになるまで傷つけた工房長には絶対に復讐をしてやろうと密かに誓ったのだった。
半人半馬族は普段は温厚な性格だが、怒らせるととことん怖い。相手を執念深く追いかけて復讐を遂げる生き物だ。
「それでね、明日には返事をしないといけないんだけど、まだ迷っているの」
「フレイ……」
「進むことも諦めることもできないなんて……、我ながら情けなくて、嫌になっちゃうよ」
フレイヤは眉尻を下げ、力なく笑った。
そんな彼女に励ましの言葉をかけようとしたその時、ハルモニアはこちらに近づいてくる気配を察知した。
――耳を澄ませると、革靴が地面を踏みしめているような音が聞こえてくるから、相手は人間なのだろう。人数は恐らく、一人だ。それくらいなら十分、フレイヤを守れる。
ハルモニアは腕の中にいるフレイヤを抱き寄せ、片手に剣を握る。
たとえ近づいてきているのが人間でも、安全であるとは限らない。もしも盗賊であれば、フレイヤの身に危険が及んでしまう。
次第に足音が近づき、人間の男が二人の目の前に現れた。フレイヤが相手の姿を見て、身を固くしたのが腕から伝わってくる。
「そこの人間、止まりなさい」
ハルモニアが硬い声で命じると、男は動きを止めた。
細身で背が高くしなやかな体躯を持つ、整っている顔立ちの男だ。彼は焦げ茶色の長い外套を着ており、その下には質の良さそうな服を着ている。
道に迷った貴族だろうか。
そう思ったハルモニアが再び声をかける前に、フレイヤの口が微かに動いた。
「シ、シルヴェリオ様……」
そうして、相手の男の名前を呼んだのだった。