追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
11.甘い誘惑
突然現れたシルヴェリオに驚いたフレイヤは、思わず身を強張らせた。
彼も半人半馬族に用があるのだろうか、それとも自分を追いかけてきたのだろうか――。
いずれにせよ、先ほど菓子店で彼を無視した無礼を謝らなければならない。
「シ、シルヴェリオ様……」
狼狽えながらも謝ろうとするフレイヤに、シルヴェリオはいつものぶっきらぼうな表情のまま、甘い香りのする包みを彼女に差し出した。
焼き立てのケーキの匂いに、フレイヤの鼻がぴくりと動く。
「あ、あの……シルヴェリオ様、これはいったい……?」
「菓子だ。明日君に会ったら渡そうと思って買っていたものだから受け取ってくれ。食べ物は出来立てが一番美味いとパルミロが言っていた」
「……いいのですか?」
フレイヤは躊躇いつつ、シルヴェリオと菓子の入った包みを交互に見る。
シルヴェリオが自分に菓子をくれる理由がわからず、困惑している。その一方で、甘い香りに誘われてしまうのだ。
そんなフレイヤの様子を見ていたシルヴェリオは、子どもの頃に庭先で出会った仔犬とフレイヤの姿が重なって見えてしまった。
よちよち歩きの仔犬はシルを警戒していたが、彼が手に持っていたバタークッキーを差し出すと、彼の顔とバタークッキーを交互に見ながら近寄ってきたのだった。
淑女に対して言うべきではないから心の中にしまっておく。しかしフレイヤがあまりにもその時の仔犬に似ており、笑ってしまいそうになるから困る。
「……ふっ」
思わず笑い声を溢してしまった彼は、片手で口元を覆って笑みを隠した。
「パルミロから聞いたが、君は菓子が好きらしいな?」
「はい、大好きです」
そう言い、包みに鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる姿が、あの時の仔犬の姿と重なる。
甘い香りにうっとりとした表情を浮かべていたフレイヤだが、シルヴェリオの視線に気付くと慌てて表情を取り繕った。恥ずかしいのか、頬を仄かに赤くしている。
どうやらパルミロの言った通り、彼女は菓子が好きらしい。それも、かなり好きな部類だろう。
これまでに見てきた落ち着いた表情とは異なり、子どものように無邪気に匂いを嗅いでいる姿は好感を持てた。
フレイヤ・ルアルディはシルヴェリオがこれまで会ってきた女性とはどこか違う。飾らないが存在感があり、思わず目で追ってしまうのだ。
次はどのような表情を見せてくれるのだろうか。
期待してフレイヤを見つめていると、ハルモニアが小さく咳払いをした声が聞こえてきた。
シルヴェリオが顔を向けると、彼はフレイヤの後ろから含みのある笑みを自分に向けているではないか。
その微笑みからは少しも友好的な雰囲気を感じられない。むしろ敵意をひしひしと感じる。
この若い雄の半人半馬族は、シルヴェリオがフレイヤを害そうとする人間だと思っているらしい。だからフレイヤを守ろうとしているようだ。彼女に寄り添いつつ、牽制してくるのは、そのような理由があるからだろう。
そう感じ取ったシルヴェリオは、ひとまず半人半馬族の誤解を解くことにした。
そもそもシルヴェリオがこの森に来たのは、フレイヤを助けるためだ。
ロードンに隣接している森には半人半馬族以外の魔獣や妖精も住んでいる。中には人間を彷徨わせることが好きな妖精もいるため、対妖精魔法を使わないと森の中で迷子になってしまうことだってある。
菓子屋から飛び出したフレイヤが森に駆け込んでいる姿を見たシルヴェリオは、彼女が迷子にならないよう後を追ったのだった。
「フレイさん、勝手についてきてすまなかった。森に入っていく姿を見たから、迷子になってはいけないと思って追いかけたんだ」
フレイヤはパッチリとした若草色の目を瞬かせると、慌てて頭を下げた。
彼の厚意を疑ってしまった数分前の自分を叱りたくなるのだった。
「そうだったんですね。ご心配おかけしてすみません!」
「いや、俺の早とちりだから気にしないでくれ。友人と話しているところを邪魔して悪かった」
シルヴェリオはまたもや頭を下げようとするフレイヤを止めた。
どうかこれ以上は頭を下げないでほしい。謝ってもらうつもりなんてなかったし、彼女の後ろにいる半人半馬族から飛んでくる視線が地味に痛いのだ。呪詛が込められているのかと思うほど強い威圧を感じる。
これ以上は長居しない方が良さそうだと判断したシルヴェリオは、フレイヤをハルモニアに任せて帰ることにした。
「そこの半人半馬族、フレイさんを街まで送ってくれないだろうか? 一人で帰すのは不安だ」
ハルモニアはすうっと目を細めたが、すぐにまた笑顔を取り繕った。
「もちろん、頼まれなくても見送るよ。いつも通り、ね」
「……それは良かった」
シルヴェリオは胸に微かなざらつきを覚えたが、気づかぬふりをした。微かな悪意を感じ取ったものの、それに気をとられている暇はない。今はネストレにかけられている呪いが一日でも早く解かれるよう方法を探すことに集中したい。
彼はもう一度フレイヤに向き直ると、律儀に礼をとった。
「明日また会おう。いい返事を待っている」
「あ、あの……私は本当に特別な力なんてないんです。だからシルヴェリオ様の期待に応えられる香水を作れるとは思えません。それなのに調香師として雇ってもらうなんて申し訳ないです」
フレイヤは今まで、客の気持ちに寄り添って調香師てきた。彼らが必要としている香りを作るために。
だからこそシルヴェリオが望む香水を作れないのに好待遇で雇ってもらうことには抵抗があるのだ。
「……君は責任感が強いんだな」
「そういうわけでは……、私では力不足であることをわかっていただきたいんです」
「君が自分の力量をどのように評価していたとしても構わない。私は、君に香水を作ってもらいたい。親友を助ける方法があるのなら諦めたくないんだ」
数多の解呪方法を調べ、持ちうる限りの伝手を頼った。しかし未だに友人を助けられないでいることがもどかしい。
そんなシルヴェリオにとって、フレイヤの作る香水は暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようなものなのだ。
もちろんフレイヤが言う通り効果はないのかもしれないし、やはりただの噂なのかもしれない、それでも縋りたいのだ。
すると、これまで黙って話を聞いていたハルモニアが二人の間に入ってきた。
彼はフレイヤを庇うように前に立ち、シルヴェリオを睨みつける。
「フレイを困らせないでくれ。この子をそちらの問題に巻き込まないでもらいたい」
シルヴェリオとハルモニアの間に、ぱちりと火花が散った。
「フレイさんには俺の我儘に付き合ってもらうことになるから、できる限りの謝礼を約束する。だから契約書に書いてあること以外にも希望があれば言ってくれ」
「い、いえ……これ以上ないくらい好条件ですので大丈夫です!」
フレイヤは盛大に狼狽えた。ただでさえシルヴェリオが望むような香水は作れないと思っているのに好待遇を上乗せしてくるのは止めてほしい。
しかしその一言がシルヴェリオに隙を与えたことなど、心優しいフレイヤは知らなかった。
「なるほど、君にとって好ましい条件を提示できているようで安心した。明日はいい返事を聞けそうだな」
「ええと、条件はとてもいいのですが……その、私の力量がですね……」
「問題ない。君はエイレーネ王国で最も大きな力を持つ、カルディナーレ香水工房で働いていたのだから十分あるだろう」
シルヴェリオの深い青色の目がしっかりとフレイヤを捕らえる。
畳みかけるなら今しかない。そう悟ったシルヴェリオは、踵を返そうとした足を止めてしまった。
どうしたらフレイヤ・ルアルディを説得できるだろうか。
シルヴェリオは先ほどまでの会話を遡り、彼女の人柄を分析した。
良く言えば謙虚だが、あまり自信がないようだ。しかし責任感が強く、思いやりがある。人間の悪意に敏感で、本来なら人間と距離をとろうとする半人半馬族が守ろうとしているくらいなのだから、心優しい性格なのだろう。
そんなフレイヤ・ルアルディに高価な品物や名声を対価に交渉しても承諾してもらえないような気がした。
(……やはり、菓子なのだろうか)
消去法で残ったのはそれのみである。
シルヴェリオは自分自身も知らない内に、フレイヤの反応を楽しみに言葉を続けた。
「契約書に書いた条件に加えておやつを付けよう。君が好きな店から菓子を取り寄せる。もちろん、毎日だ。休みの日は従者に言って届けさせるつもりだ」
「――っ!」
その刹那、フレイヤの若草色の目が見開かれた。
断るような素振りは全くなく、彼女の心が揺れているのが伝わってくる。
あと一押しだろう。
彼女の反応を見てそう感じたシルヴェリオは、さらに畳みかけた。
「王都にある屋敷には元王宮菓子職人もいる。好きな時に彼に菓子を作らせてもいい」
「な、なんて贅沢な……!」
好きな時に菓子職人に菓子を作ってもらえるなんて夢のような職場だ。
しかし平民のフレイヤにとってその特典はいささかハードルが高い。
「気兼ねなく頼んでやってくれ。俺も姉上もあまり甘いものを食べないから菓子職人が退屈している。君が来てくれたら喜ぶだろう」
「うっ……」
「彼は外国の菓子にも詳しいから、君が見たこともない菓子も作ってくれるぞ」
「まだ見ぬお菓子に出会える……?!」
好奇心と食欲に負けたフレイヤが目を輝かせると、シルヴェリオは罠にかかった獲物を狙う猟師の如く目を光らせる。
「俺の専属調香師になってくれないか?」
「な……なります!」
「……ふっ」
勢いよく返事をするフレイヤに、シルヴェリオは笑いを堪えきれなくなってしまった。またもや片手で口元を覆うと、俯いて肩を震わせる。
「あの……どうしました?」
「……まさか本当に、菓子で仕事を引き受けてくれるとは……」
感情を押さえているような声でそう呟くと、吹き出して笑い始めた。
「ははっ、パルミロが言う通り、君はとても菓子が好きなんだな」
シルヴェリオの予期せぬ反応に戸惑うフレイヤだが、彼が相貌を崩して笑う姿から目が離せない。
(わ、笑った――?!)
これまでは近寄りがたい雰囲気のシルヴェリオだったが、屈託なく笑うと柔らかい表情になり、そのギャップに惹きつけられた。
「それでは、契約書に署名して置いてくれ。明日その契約書をもらいに行く」
「わ、わかりました」
シルヴェリオは右手を差し出し、フレイヤに握手を求める。
その手は美しく、細く長い指は形が整っており、思わずじっと見つめてしまいそうになった。
「これからよろしく頼む」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
「君が承諾してくれて良かったよ。君の香水で、ネストレ殿下にかけられている呪いを解いてくれ」
「えっ……ネストレ殿下……?」
突然飛び出てきた王族の名前に、フレイヤの表情が固まった。
「ネ、ネストレ殿下って……王子様のこと……ですか?」
「ああ、第二王子だ」
「あ、あの……眠ったまま目を覚まさない友人を助けたいと言っていませんでしたか?!」
「そうだ。その友人がネストレ殿下だ」
「――っ!」
フレイヤは声にならない悲鳴を上げた。
友人が王子だなんて聞いていない。
平民の自分には想像すらできない交友関係に驚きを隠せないでいる。
想像を絶する仕事にプレッシャーを感じたフレイヤは、前言撤回することにした。
「あ、あの! やっぱりこの仕事は引き受けられ――」
「三食全て提供するし、食後のデザートをつけよう」
フレイヤを逃がさないと言わんばかりに、シルヴェリオが被せるように福利厚生を追加する。
「うっ……、あ、あの……」
言葉を詰まらせるフレイヤを見たシルヴェリオは、またもや口元に弧を描き微笑んだ。
「よろしく頼むぞ、俺の調香師殿」
「~~っ!」
言質はとったと言わんばかりのシルヴェリオの表情に、フレイヤは頬を引き攣らせる。
そんな彼女を、ハルモニアは心配そうな表情で見つめるのだった。
彼も半人半馬族に用があるのだろうか、それとも自分を追いかけてきたのだろうか――。
いずれにせよ、先ほど菓子店で彼を無視した無礼を謝らなければならない。
「シ、シルヴェリオ様……」
狼狽えながらも謝ろうとするフレイヤに、シルヴェリオはいつものぶっきらぼうな表情のまま、甘い香りのする包みを彼女に差し出した。
焼き立てのケーキの匂いに、フレイヤの鼻がぴくりと動く。
「あ、あの……シルヴェリオ様、これはいったい……?」
「菓子だ。明日君に会ったら渡そうと思って買っていたものだから受け取ってくれ。食べ物は出来立てが一番美味いとパルミロが言っていた」
「……いいのですか?」
フレイヤは躊躇いつつ、シルヴェリオと菓子の入った包みを交互に見る。
シルヴェリオが自分に菓子をくれる理由がわからず、困惑している。その一方で、甘い香りに誘われてしまうのだ。
そんなフレイヤの様子を見ていたシルヴェリオは、子どもの頃に庭先で出会った仔犬とフレイヤの姿が重なって見えてしまった。
よちよち歩きの仔犬はシルを警戒していたが、彼が手に持っていたバタークッキーを差し出すと、彼の顔とバタークッキーを交互に見ながら近寄ってきたのだった。
淑女に対して言うべきではないから心の中にしまっておく。しかしフレイヤがあまりにもその時の仔犬に似ており、笑ってしまいそうになるから困る。
「……ふっ」
思わず笑い声を溢してしまった彼は、片手で口元を覆って笑みを隠した。
「パルミロから聞いたが、君は菓子が好きらしいな?」
「はい、大好きです」
そう言い、包みに鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいる姿が、あの時の仔犬の姿と重なる。
甘い香りにうっとりとした表情を浮かべていたフレイヤだが、シルヴェリオの視線に気付くと慌てて表情を取り繕った。恥ずかしいのか、頬を仄かに赤くしている。
どうやらパルミロの言った通り、彼女は菓子が好きらしい。それも、かなり好きな部類だろう。
これまでに見てきた落ち着いた表情とは異なり、子どものように無邪気に匂いを嗅いでいる姿は好感を持てた。
フレイヤ・ルアルディはシルヴェリオがこれまで会ってきた女性とはどこか違う。飾らないが存在感があり、思わず目で追ってしまうのだ。
次はどのような表情を見せてくれるのだろうか。
期待してフレイヤを見つめていると、ハルモニアが小さく咳払いをした声が聞こえてきた。
シルヴェリオが顔を向けると、彼はフレイヤの後ろから含みのある笑みを自分に向けているではないか。
その微笑みからは少しも友好的な雰囲気を感じられない。むしろ敵意をひしひしと感じる。
この若い雄の半人半馬族は、シルヴェリオがフレイヤを害そうとする人間だと思っているらしい。だからフレイヤを守ろうとしているようだ。彼女に寄り添いつつ、牽制してくるのは、そのような理由があるからだろう。
そう感じ取ったシルヴェリオは、ひとまず半人半馬族の誤解を解くことにした。
そもそもシルヴェリオがこの森に来たのは、フレイヤを助けるためだ。
ロードンに隣接している森には半人半馬族以外の魔獣や妖精も住んでいる。中には人間を彷徨わせることが好きな妖精もいるため、対妖精魔法を使わないと森の中で迷子になってしまうことだってある。
菓子屋から飛び出したフレイヤが森に駆け込んでいる姿を見たシルヴェリオは、彼女が迷子にならないよう後を追ったのだった。
「フレイさん、勝手についてきてすまなかった。森に入っていく姿を見たから、迷子になってはいけないと思って追いかけたんだ」
フレイヤはパッチリとした若草色の目を瞬かせると、慌てて頭を下げた。
彼の厚意を疑ってしまった数分前の自分を叱りたくなるのだった。
「そうだったんですね。ご心配おかけしてすみません!」
「いや、俺の早とちりだから気にしないでくれ。友人と話しているところを邪魔して悪かった」
シルヴェリオはまたもや頭を下げようとするフレイヤを止めた。
どうかこれ以上は頭を下げないでほしい。謝ってもらうつもりなんてなかったし、彼女の後ろにいる半人半馬族から飛んでくる視線が地味に痛いのだ。呪詛が込められているのかと思うほど強い威圧を感じる。
これ以上は長居しない方が良さそうだと判断したシルヴェリオは、フレイヤをハルモニアに任せて帰ることにした。
「そこの半人半馬族、フレイさんを街まで送ってくれないだろうか? 一人で帰すのは不安だ」
ハルモニアはすうっと目を細めたが、すぐにまた笑顔を取り繕った。
「もちろん、頼まれなくても見送るよ。いつも通り、ね」
「……それは良かった」
シルヴェリオは胸に微かなざらつきを覚えたが、気づかぬふりをした。微かな悪意を感じ取ったものの、それに気をとられている暇はない。今はネストレにかけられている呪いが一日でも早く解かれるよう方法を探すことに集中したい。
彼はもう一度フレイヤに向き直ると、律儀に礼をとった。
「明日また会おう。いい返事を待っている」
「あ、あの……私は本当に特別な力なんてないんです。だからシルヴェリオ様の期待に応えられる香水を作れるとは思えません。それなのに調香師として雇ってもらうなんて申し訳ないです」
フレイヤは今まで、客の気持ちに寄り添って調香師てきた。彼らが必要としている香りを作るために。
だからこそシルヴェリオが望む香水を作れないのに好待遇で雇ってもらうことには抵抗があるのだ。
「……君は責任感が強いんだな」
「そういうわけでは……、私では力不足であることをわかっていただきたいんです」
「君が自分の力量をどのように評価していたとしても構わない。私は、君に香水を作ってもらいたい。親友を助ける方法があるのなら諦めたくないんだ」
数多の解呪方法を調べ、持ちうる限りの伝手を頼った。しかし未だに友人を助けられないでいることがもどかしい。
そんなシルヴェリオにとって、フレイヤの作る香水は暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようなものなのだ。
もちろんフレイヤが言う通り効果はないのかもしれないし、やはりただの噂なのかもしれない、それでも縋りたいのだ。
すると、これまで黙って話を聞いていたハルモニアが二人の間に入ってきた。
彼はフレイヤを庇うように前に立ち、シルヴェリオを睨みつける。
「フレイを困らせないでくれ。この子をそちらの問題に巻き込まないでもらいたい」
シルヴェリオとハルモニアの間に、ぱちりと火花が散った。
「フレイさんには俺の我儘に付き合ってもらうことになるから、できる限りの謝礼を約束する。だから契約書に書いてあること以外にも希望があれば言ってくれ」
「い、いえ……これ以上ないくらい好条件ですので大丈夫です!」
フレイヤは盛大に狼狽えた。ただでさえシルヴェリオが望むような香水は作れないと思っているのに好待遇を上乗せしてくるのは止めてほしい。
しかしその一言がシルヴェリオに隙を与えたことなど、心優しいフレイヤは知らなかった。
「なるほど、君にとって好ましい条件を提示できているようで安心した。明日はいい返事を聞けそうだな」
「ええと、条件はとてもいいのですが……その、私の力量がですね……」
「問題ない。君はエイレーネ王国で最も大きな力を持つ、カルディナーレ香水工房で働いていたのだから十分あるだろう」
シルヴェリオの深い青色の目がしっかりとフレイヤを捕らえる。
畳みかけるなら今しかない。そう悟ったシルヴェリオは、踵を返そうとした足を止めてしまった。
どうしたらフレイヤ・ルアルディを説得できるだろうか。
シルヴェリオは先ほどまでの会話を遡り、彼女の人柄を分析した。
良く言えば謙虚だが、あまり自信がないようだ。しかし責任感が強く、思いやりがある。人間の悪意に敏感で、本来なら人間と距離をとろうとする半人半馬族が守ろうとしているくらいなのだから、心優しい性格なのだろう。
そんなフレイヤ・ルアルディに高価な品物や名声を対価に交渉しても承諾してもらえないような気がした。
(……やはり、菓子なのだろうか)
消去法で残ったのはそれのみである。
シルヴェリオは自分自身も知らない内に、フレイヤの反応を楽しみに言葉を続けた。
「契約書に書いた条件に加えておやつを付けよう。君が好きな店から菓子を取り寄せる。もちろん、毎日だ。休みの日は従者に言って届けさせるつもりだ」
「――っ!」
その刹那、フレイヤの若草色の目が見開かれた。
断るような素振りは全くなく、彼女の心が揺れているのが伝わってくる。
あと一押しだろう。
彼女の反応を見てそう感じたシルヴェリオは、さらに畳みかけた。
「王都にある屋敷には元王宮菓子職人もいる。好きな時に彼に菓子を作らせてもいい」
「な、なんて贅沢な……!」
好きな時に菓子職人に菓子を作ってもらえるなんて夢のような職場だ。
しかし平民のフレイヤにとってその特典はいささかハードルが高い。
「気兼ねなく頼んでやってくれ。俺も姉上もあまり甘いものを食べないから菓子職人が退屈している。君が来てくれたら喜ぶだろう」
「うっ……」
「彼は外国の菓子にも詳しいから、君が見たこともない菓子も作ってくれるぞ」
「まだ見ぬお菓子に出会える……?!」
好奇心と食欲に負けたフレイヤが目を輝かせると、シルヴェリオは罠にかかった獲物を狙う猟師の如く目を光らせる。
「俺の専属調香師になってくれないか?」
「な……なります!」
「……ふっ」
勢いよく返事をするフレイヤに、シルヴェリオは笑いを堪えきれなくなってしまった。またもや片手で口元を覆うと、俯いて肩を震わせる。
「あの……どうしました?」
「……まさか本当に、菓子で仕事を引き受けてくれるとは……」
感情を押さえているような声でそう呟くと、吹き出して笑い始めた。
「ははっ、パルミロが言う通り、君はとても菓子が好きなんだな」
シルヴェリオの予期せぬ反応に戸惑うフレイヤだが、彼が相貌を崩して笑う姿から目が離せない。
(わ、笑った――?!)
これまでは近寄りがたい雰囲気のシルヴェリオだったが、屈託なく笑うと柔らかい表情になり、そのギャップに惹きつけられた。
「それでは、契約書に署名して置いてくれ。明日その契約書をもらいに行く」
「わ、わかりました」
シルヴェリオは右手を差し出し、フレイヤに握手を求める。
その手は美しく、細く長い指は形が整っており、思わずじっと見つめてしまいそうになった。
「これからよろしく頼む」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
「君が承諾してくれて良かったよ。君の香水で、ネストレ殿下にかけられている呪いを解いてくれ」
「えっ……ネストレ殿下……?」
突然飛び出てきた王族の名前に、フレイヤの表情が固まった。
「ネ、ネストレ殿下って……王子様のこと……ですか?」
「ああ、第二王子だ」
「あ、あの……眠ったまま目を覚まさない友人を助けたいと言っていませんでしたか?!」
「そうだ。その友人がネストレ殿下だ」
「――っ!」
フレイヤは声にならない悲鳴を上げた。
友人が王子だなんて聞いていない。
平民の自分には想像すらできない交友関係に驚きを隠せないでいる。
想像を絶する仕事にプレッシャーを感じたフレイヤは、前言撤回することにした。
「あ、あの! やっぱりこの仕事は引き受けられ――」
「三食全て提供するし、食後のデザートをつけよう」
フレイヤを逃がさないと言わんばかりに、シルヴェリオが被せるように福利厚生を追加する。
「うっ……、あ、あの……」
言葉を詰まらせるフレイヤを見たシルヴェリオは、またもや口元に弧を描き微笑んだ。
「よろしく頼むぞ、俺の調香師殿」
「~~っ!」
言質はとったと言わんばかりのシルヴェリオの表情に、フレイヤは頬を引き攣らせる。
そんな彼女を、ハルモニアは心配そうな表情で見つめるのだった。