追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

24.コルティノーヴィス香水工房

 王都の貴族区画の北にある建物に、大勢の人が集まっている。
 大工や商人が絶え間なく出入りしており、その周囲を通る貴族たちが興味深そうに眺めている。

「あら、新しいお店ができるのかしら?」
「以前は香水工房だった場所ね。今度は何になるのか楽しみだわ」

 近くにあるカフェのテラス席でお茶を嗜んでいる令嬢たちがのんびりと話している。彼女たちの視線の先に、榛色の髪を綺麗に結わえた女性――フレイヤが現れた。
 フレイヤは落ち着いたデザインの紺色のワンピースを着ており、その手には箒と塵取りを持っている。
 三日前にシルヴェリオと一緒に下見したこの香水工房だった建物を掃除しに来たのだ。

(こんなにも素敵な建物が新しい職場になるなんて、夢みたい……)

 フレイヤは建物を見上げてほうっと息を吐いた。
 二階建ての新工房の一階部分には白い漆喰の壁には天井から床まである大きな硝子窓があり、中が明るくて居心地がいい。
 屋根裏部屋もあり、橙色の屋根には窓がついている。もしもシルヴェリオが許してくれるのであれば、夜にここから星を眺めてみたいものだ。
 
(後でシルヴェリオ様に聞いてみよう)

 シルヴェリオは香水工房の開業申請のために朝から商業組合へ行っている。
 
(正式に受理されたら……私は副工房長かぁ……実感がないな)

 コルティノーヴィス香水工房はシルヴェリオが工房長、フレイヤが副工房長として申請される。
 
 まさか自分が役職付になるとは思ってもみなかった。
 シルヴェリオの提案にフレイヤが驚いていると、シルヴェリオはいつもの澄ました表情で「本当は工房長を任せたかったのだが……」と言い、さらに驚かせたのだった。
 
(シルヴェリオ様ってなんというか……無欲な方よね……)
 
 給料の話をした時もフレイヤは驚かされたのだった。なんせシルヴェリオは、カルディナーレ香水工房で働いていた時の五倍もある給料を提示してきたのだ。
 そこまで優遇されると怖くなり、値下げ交渉を試みたフレイヤだったが、シルヴェリオに言葉巧みに誘導されて最後には承諾したのだった。

(給料が上がったからお庭の植物たちのためにいい肥料を買えるよね。だから良しとしよう……)
 
 新しい家の庭の手入れが毎日の楽しみになっている。
 朝早くに起きて水やりをするのだが、全く苦ではない。むしろ植物一つ一つの様子を見ながら世話をしていると心が安らいだ。

(イチゴがそろそろ食べ頃だから、収穫したらジャムを作ろうかな?)

 フレイヤは収穫した後のことを想像し、うっとりと頬を緩ませる。
 たっぷりの砂糖と一緒に煮詰めている時の甘い香りがたまらないのだ。
 
(イチゴのジャムを作ったら、クッキーやスコーンに合わせるのもいいなぁ)

 想像するだけで涎が出てきそうだ。
 
(今日は帰りにガラス瓶と砂糖を買いに行こう)
 
 うきうきとした気持ちで扉の前を掃いているフレイヤのもとに、私服姿のパルミロがやって来た。
 薄紙に包まれた大きな荷物を持っており、それを掲げてフレイヤに見せる。
 
「フレイちゃん、注文していた看板が届いたからかけておくよ」
「わあ、もうできたんですね!」
「うちの店の常連に頼んだから優先して作ってくれたんだ」
 
 パルミロが包み紙を外すと、蒼玉の青(サファイヤブルー)地に金色の文字で工房名が書かれた看板が顔を出した。

 新しい工房の名前は<コルティノーヴィス香水工房>。
 パルミロが扉の上に看板を取りつけると、周囲にいた令嬢たちが驚きの声を上げるのが聞こえてきた。
 
「コルティノーヴィス……ということは、噂に聞いていたシルヴェリオ様のお店なのね!」
「ここに来るとシルヴェリオ様に会えるかしら? あのご尊顔を近くで見たいわ!」
 
 聞こえてくる声に耳をそばだてていたフレイヤは、貴族の世界での噂が流れる速さに舌を巻くのだった。

(つい三日前に建物を購入したのに、もう噂が流れているのね)
 
 フレイヤたちが不動産屋へ行ったその日の夜に、シルヴェリオが新しい事業を始めるために香水工房だった建物を買ったという噂が社交界で流れた。今では知らない者はいないほど広まっている。
 美しく冷徹な次期魔導士団長が始める新しい事業に関心が高まっているのだ。
 
 気を取り直して掃き掃除をしているフレイヤに、一人の男性が話しかけた。
 紺色の髪の年若い美丈夫で、棚を軽々と持ち運んでいる。
 
「副工房長、ここの棚はどうしますか?」
「その棚はカウンターの隣に置いてください」
「わかりました。馴染みのある家具を残してくれて嬉しいです」

 彼はこの建物を使っていた前の香水工房の従業員だった。
 名前はレンゾ・キアーラ。三十歳で、妻と二人の娘と一緒に暮らしている。
 
 香水工房がなくなってからは実家の家具屋を手伝っていたところ、この建物が新しい香水工房として購入されたという噂を聞くや否や、コルティノーヴィス伯爵家の屋敷にやってきてシルヴェリオに雇ってほしいと申し出たそうだ。
 以前の工房では香料の抽出をしていたということで、シルヴェリオはすぐに彼と契約を結んだ。

「あの、副工房長は慣れないので、フレイヤと呼んでください」
「わかりました。それでは、俺のことはレンゾと呼んでください」

 そう言い、レンゾはニカリと笑った。
 見た目はいささか強面なレンゾだが、性格は実直で物腰が柔らかい。フレイヤはすぐにレンゾと打ち解けられた。
 
 掃き掃除を終えたフレイヤが棚を拭いていると、シルヴェリオがやって来た。

「シルヴェリオ様、おはようございます。開業申請はどうでしたか?」
「問題ない。すぐに承認された」

 シルヴェリオはいつもの調子で淡々と答えると、背後に控えていた執事に言って開業許可証を取り出して見せた。

「良かった……」
「問題はここからだ。材料の入手が難航している」
「もしかして、販売を断られたんですか?」
「ああ、セニーゼ商会に手紙を送ったら商人が訪ねてきたんだ。調香師の名前を聞かれたから答えたら断られてしまった」
「やっぱり断られましたか……。おそらく、カルディナーレ香水工房を辞めさせられた調香師の名前がどの商会にも伝わっているんだと思います」
「その者たちがいる工房には材料を売らないよう徹底しているのか。厄介な奴らだな。断られることを想定して他の商会にも声をかけたが、どこも同じ理由を付けて断ってきた」
 
 どこの商会も「安定した供給をするために取引先を限定している」と言って断ったそうだ。

「材料を自分たちで調達するしか方法がないのでしょうか……?」
「……いや、一カ所だけまだ声をかけていないところがある。小さな商会を束ねている商団だから、香料を集められるかもしれない」

 そう話すシルヴェリオは、どことなく気が進まなさそうだった。
 いつもは感情をあまり顔に出さない彼にしては珍しい。

「あまり借りを作りたくないが……」

 そっと呟く声をかき消すように、扉が勢いよく開く音が聞こえてきた。
 音に驚いたフレイヤが扉がある方角を見ると、若草色の髪に片眼鏡(モノクル)が印象的な長身の美形の男性と目が合う。その手には大きなバスケットを持っており、中から焼いた肉や甘辛いタレの香りがした。
 
「こんにちはー! 差し入れを持ってきましたよー!」
 
 突然現れた男性は我が物顔で工房の中を歩く。バスケットの中から芳ばしい香りのする包みを取り出すと、シルヴェリオやパルミロたちに配り始めた。
 予期せぬ訪問客の登場に驚いたフレイヤは呆然としてその様子を眺める。
 
(どちら様?!)

 身なりが綺麗だから貴族だろう。
 ちらりとシルヴェリオの顔を見ると、いつもと変わらない表情だ。驚いていないのだから、知り合いなのかもしれない。
 
 男性はまずシルヴェリオの前で礼をとり、粛々と挨拶をした。次いでフレイヤを見ると、花が咲いたように微笑む。

「おやおや、こんなところに美しい花が咲いていますね~。初めまして、美しいお嬢さん。俺はリベラトーレ・ステンダルディ。実家は代々コルティノーヴィス伯爵家に仕えている男爵家さ。俺はシルヴェリオ様の姉君であるヴェーラ様の秘書をしているよ」
「フ、フレイヤ・ルアルディといいます。シルヴェリオ様の専属調香師です。よろしくお願いします」
「名前まで素敵だねぇ~。よろしくね、フレイヤちゃん」
 
 急に馴れ馴れしい口調になったリベラトーレに握手を求められたが、フレイヤが手を伸ばそうとしたところでシルヴェリオが二人の間に入って妨げた。
 
「おやおや、シルヴェリオ様ったら怖い顔をしていますよ」
「この顔は生まれつきだ」
「ふ~ん? そうですか」
 
 すると、リベラトーレは演技がかった所作で片眼鏡(モノクル)を掛け直す。
 
「それにしても、みなさん浮かない顔をしていますね。どうしたんですか~?」
「その顔だと、もうすでに事情を知ってやって来たようだな」
「あはは、私は預言者ではないのでわかりませんよ。何があったのか教えていただいても?」
「……先日姉上に話した通り、香水事業を始めるために工房を開くつもりなのだ。しかし我々に香料や材料を売ってくれる商会がないんだ」
「それは由々しき事態ですね~」

 やや間延びした話し方からは全く緊張感が伝わってこない。
 フレイヤから見ると、リベラトーレがこの状況を楽しんでいるように見えた。
 
「では、我が主のコルティノーヴィス伯爵を頼るのはいかがでしょうか?」

 にっこりと微笑んでいるのに笑っていないように思える。
 そんなリベラトーレに怯えたフレイヤは、無意識のうちにシルヴェリオの後ろに隠れた。
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