追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
28.甘くほろ苦く
ほどなくして、フレイヤたちはコルティノーヴィス伯爵家の客間の扉の前に到着した。
この扉の前には故郷の領主でシルヴェリオの姉――そして今回の商談相手であるヴェーラが待っているのだ。初めて貴族家の当主と会うということもあり、心臓が早鐘を打ち鳴らし続けている。
(し、しっかりしなきゃ……! 私はもうコルティノーヴィス香水工房の副工房長なんだから!)
まだ自信はないけれど、それでも任せてもらったからには副工房長としての責務を全うしたい。
工房長であるシルヴェリオを補佐し、部下となるレンゾにとって頼もしい存在になりたいとも願っている。
その一歩を踏み出すために、この商談には胸を張って挑もうと密かに心に決めていたのだ。
フレイヤは猫背気味の体を、しゃんと伸ばす。
気弱になってしまいそうな心を奮い立たせるために、ぺちりと自分の頬を叩いて気合を入れた。
前に立って案内してくれていたリベラトーレが扉を叩き、中にいる人物――ヴェーラに呼びかける。
「ヴェーラ様~! お連れしましたよ~!」
「――入りなさい」
返事はすぐだった。凛とした女性の声だ。
扉が開き、リベラトーレがもったいぶった所作でフレイヤとシルヴェリオに部屋に入るように促す。
「では、お二人とも中にどうぞ~」
部屋の中は天井が高く、天井から床まである窓から入り込む陽の光に照らされて明るい。
窓から室内へと視線を動かしたフレイヤは、部屋の中央にある長椅子に座っている女性と目が合った。
(うわぁ! すごく綺麗な人……!)
女性の髪は白金色。艶やかで美しいその髪を、編み込みも交えてきっちりと結い上げている。
切れ長の目は紅玉のように赤く、彼女の陶器のように白い肌によく映える。
目元やすっと通った鼻筋に彫りの深い顔立ちがシルヴェリオと似ており、血の繋がりを感じさせた。
彼女はドレスではなくシャツにベストとトラウザーズを着ているが、その姿は違和感なくむしろ女伯爵としての貫禄を漂わせている。
(……いけない、ジロジロと見てしまったわ……!)
芸術作品のように美しい見目に思わず視線がそちらを向いてしまったが、不敬にならないようにそっと視線を外した。
そして一歩前に出ると、右手は胸に当て、左手でスカートを少し摘まんで礼をとる。
身分が低いものから挨拶を始めるのが、エイレーネ王国の貴族社会の通例だ。
「お初目にかかります。私はシルヴェリオ様の専属調香師となったフレイヤ・ルアルディです」
粛々と挨拶を述べるフレイヤに、女性はいかにも貴族らしい泰然とした笑みを向ける。
「ほう、ルアルディ殿は貴族の作法を知っているのだね」
「いつか貴族のお客様のご依頼を受ける際に無礼の無いように独学で学びました。実践するのは今日が初めてなので、無礼がありましたら申し訳ございません」
かつてカルディナーレ香水工房で働いていた時、フレイヤは仕事が終わってクタクタになっていても図書館で礼儀作法の本を借りては鏡を見ながら練習していた。
礼儀作法を知っていれば、貴族のお客様も任せてもらえると聞いて必死で学んだのだ。
しかし実際に貴族を相手にできるのは工房長であるアベラルドと彼のお気に入りの部下だけ。
フレイヤは一度も身につけた礼儀作法を披露できることなく工房を追い出されたのだった。
「実に見事だ。幼い頃から礼儀作法の教師をつけている貴族令嬢よりも優雅さがあって見惚れたよ」
そう言い、女性は片手で向かい側にある椅子を指し示す。
「私はヴェーラ・コルティノーヴィスだ。客人を立たせたまま話すわけにはいかないから、座りなさい」
「ありがとうございます」
「それと……シルヴェリオ、また顔を合わせられて嬉しいよ。今日は姉弟ではなく商談相手として共に有意義な時間を過ごそうではないか」
「……ええ、よろしくお願いします」
久しぶりに家族に会ったというのにシルヴェリオの表情は硬い。一方でヴェーラは微笑みを浮かべて親し気に話しかけているものの、どことなくよそよそしい。
二人の間に流れる微妙な空気に、フレイヤはかつて領地で聞いた話を思い出す。
現コルティノーヴィス伯爵であるヴェーラはシルヴェリオの腹違いの姉で正妻の子ども。
対してシルヴェリオは先代当主と愛人の間に生まれた私生児だが、父親である先代当主の強い意向でコルティノーヴィス伯爵家の籍に迎えられたらしい。
そのような背景だからお互いに気まずいのかもしれないと納得する。
フレイヤとシルヴェリオがそれぞれ椅子に腰かけると、ヴェーラはゆったりとした動きで脚を組んだ。
膝の上に頬杖をつき、赤い目を二人に向ける。
「ところで、二人は恋人なのかな?」
「……は?」
「え?」
ヴェーラからの予想外の質問に、フレイヤもシルヴェリオも間の抜けた声を上げた。
「わざわざ魔導士団の仕事を休んで領地まで赴いてルアルディ殿を迎えに行き、王都に戻ってからは毎日欠かさず贈り物を贈っているではないか」
「――っ」
シルヴェリオは絶句した。
まさか自分の行動がそのような噂を招くとは思いも寄らなかったのだ。
――ならば誤解を解かねばならない。
弁明の言葉を探すシルヴェリオの隣で、フレイヤがぶんぶんと首を横に振った。
「違います! シルヴェリオ様は私の雇い主であり上司です。贈り物と仰っているのは私の雇用契約の中に含まれている福利厚生の……おやつなんです」
「おやつ……」
ヴェーラが復唱すると、フレイヤは気恥ずかしそうに頬を赤く染める。
「はい、甘い物が好きなので、その……デザートとは別につけていただいています……」
「契約条件に菓子……か。ルアルディ殿は菓子で釣られたと?」
「そ……そう、です……」
穴があったら入りたい。
フレイヤの顔にでかでかと書かれている感情を読み取ったシルヴェリオは、思わず笑い声を零してしまった。
「……ふっ」
これ以上は笑い声を聞かれないよう、片手で口元を覆う。
肩を震わせるシルヴェリオに、フレイヤは恨みがましそうな目で睨ねつけた。
「わ、笑わないでください……!」
「すまない。君が菓子で釣られたと素直に認めたものだから思わず笑ってしまった」
「~~っ!」
自分で認めるのと相手に言われるのとでは話が違う。
ヴェーラから言われて一撃を受けた後にシルヴェリオからも言われてしまうと、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。
恥ずかしさのあまりふるふると震えていると、ちょうど執事頭がティートローリーを押して現れる。
シルヴェリオから聞いていた通り、ワゴンの上には今日のお茶に用意されたチェリーケーキがのせられている。
「カルロ、まずはフレイさんにチェリーケーキを渡してくれ」
「かしこまりました」
紅茶を入れようとしていた執事頭だが、シルヴェリオの指示で素早くティーセットをティートローリーの上に戻してチェリーケーキを切り分ける。
フレイヤは更に顔を赤くした。
まるで自分が我慢できないほどチェリーケーキに焦がれているかのようではないか、とまたもやシルヴェリオにもの言いたげな眼差しを向けるものの、シルヴェリオは口元を微かに持ち上げて微笑んで応酬する。
「遠慮せずに食べてくれ。食べ物は出来立てが一番美味い……だろ?」
「それは、そうですけど……」
普段なら遠慮なく食べるが、今は商談の最中だ。しかも本題にはまだ入っていないのに食べれるわけがない。
戸惑うフレイヤの耳に、くすりと笑う女性の声が聞こえてくる。
ヴェーラの方を振り向くと、彼女もまた口元に弧を描いて微笑んでいた。
「シルヴェリオが言う通り、遠慮は不要だ。いつも通りにしてくれ」
「お、お気遣いありがとうございます……」
「ルアルディ様、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
執事頭のカルロが紅茶を置いてさあさあと勧めてくるものだから、フレイヤは三角に切り分けられたケーキの先をフォークで掬う。
顔に近づけ、くんくんと香りを嗅ぐ。
チョコレートの甘い香りの中に、ほんのりと蒸留酒のほろ苦い香りがする。
「いただきます……」
ぱくりと口の中に入れたフレイヤは、とろんと目を蕩けさせて嬉しそうに咀嚼する。
「……味はどうだ?」
「チョコレートが染み込んだスポンジの中に蒸留酒が効いていて大人の味がします……とっても、美味しいです!!」
「ははっ、本当に美味しそうに食べるな」
一口一口を噛み締めるフレイヤを、シルヴェリオが微笑んで見守る。
その様子を、ヴェーラの赤い瞳がじっと見つめているのだった。
この扉の前には故郷の領主でシルヴェリオの姉――そして今回の商談相手であるヴェーラが待っているのだ。初めて貴族家の当主と会うということもあり、心臓が早鐘を打ち鳴らし続けている。
(し、しっかりしなきゃ……! 私はもうコルティノーヴィス香水工房の副工房長なんだから!)
まだ自信はないけれど、それでも任せてもらったからには副工房長としての責務を全うしたい。
工房長であるシルヴェリオを補佐し、部下となるレンゾにとって頼もしい存在になりたいとも願っている。
その一歩を踏み出すために、この商談には胸を張って挑もうと密かに心に決めていたのだ。
フレイヤは猫背気味の体を、しゃんと伸ばす。
気弱になってしまいそうな心を奮い立たせるために、ぺちりと自分の頬を叩いて気合を入れた。
前に立って案内してくれていたリベラトーレが扉を叩き、中にいる人物――ヴェーラに呼びかける。
「ヴェーラ様~! お連れしましたよ~!」
「――入りなさい」
返事はすぐだった。凛とした女性の声だ。
扉が開き、リベラトーレがもったいぶった所作でフレイヤとシルヴェリオに部屋に入るように促す。
「では、お二人とも中にどうぞ~」
部屋の中は天井が高く、天井から床まである窓から入り込む陽の光に照らされて明るい。
窓から室内へと視線を動かしたフレイヤは、部屋の中央にある長椅子に座っている女性と目が合った。
(うわぁ! すごく綺麗な人……!)
女性の髪は白金色。艶やかで美しいその髪を、編み込みも交えてきっちりと結い上げている。
切れ長の目は紅玉のように赤く、彼女の陶器のように白い肌によく映える。
目元やすっと通った鼻筋に彫りの深い顔立ちがシルヴェリオと似ており、血の繋がりを感じさせた。
彼女はドレスではなくシャツにベストとトラウザーズを着ているが、その姿は違和感なくむしろ女伯爵としての貫禄を漂わせている。
(……いけない、ジロジロと見てしまったわ……!)
芸術作品のように美しい見目に思わず視線がそちらを向いてしまったが、不敬にならないようにそっと視線を外した。
そして一歩前に出ると、右手は胸に当て、左手でスカートを少し摘まんで礼をとる。
身分が低いものから挨拶を始めるのが、エイレーネ王国の貴族社会の通例だ。
「お初目にかかります。私はシルヴェリオ様の専属調香師となったフレイヤ・ルアルディです」
粛々と挨拶を述べるフレイヤに、女性はいかにも貴族らしい泰然とした笑みを向ける。
「ほう、ルアルディ殿は貴族の作法を知っているのだね」
「いつか貴族のお客様のご依頼を受ける際に無礼の無いように独学で学びました。実践するのは今日が初めてなので、無礼がありましたら申し訳ございません」
かつてカルディナーレ香水工房で働いていた時、フレイヤは仕事が終わってクタクタになっていても図書館で礼儀作法の本を借りては鏡を見ながら練習していた。
礼儀作法を知っていれば、貴族のお客様も任せてもらえると聞いて必死で学んだのだ。
しかし実際に貴族を相手にできるのは工房長であるアベラルドと彼のお気に入りの部下だけ。
フレイヤは一度も身につけた礼儀作法を披露できることなく工房を追い出されたのだった。
「実に見事だ。幼い頃から礼儀作法の教師をつけている貴族令嬢よりも優雅さがあって見惚れたよ」
そう言い、女性は片手で向かい側にある椅子を指し示す。
「私はヴェーラ・コルティノーヴィスだ。客人を立たせたまま話すわけにはいかないから、座りなさい」
「ありがとうございます」
「それと……シルヴェリオ、また顔を合わせられて嬉しいよ。今日は姉弟ではなく商談相手として共に有意義な時間を過ごそうではないか」
「……ええ、よろしくお願いします」
久しぶりに家族に会ったというのにシルヴェリオの表情は硬い。一方でヴェーラは微笑みを浮かべて親し気に話しかけているものの、どことなくよそよそしい。
二人の間に流れる微妙な空気に、フレイヤはかつて領地で聞いた話を思い出す。
現コルティノーヴィス伯爵であるヴェーラはシルヴェリオの腹違いの姉で正妻の子ども。
対してシルヴェリオは先代当主と愛人の間に生まれた私生児だが、父親である先代当主の強い意向でコルティノーヴィス伯爵家の籍に迎えられたらしい。
そのような背景だからお互いに気まずいのかもしれないと納得する。
フレイヤとシルヴェリオがそれぞれ椅子に腰かけると、ヴェーラはゆったりとした動きで脚を組んだ。
膝の上に頬杖をつき、赤い目を二人に向ける。
「ところで、二人は恋人なのかな?」
「……は?」
「え?」
ヴェーラからの予想外の質問に、フレイヤもシルヴェリオも間の抜けた声を上げた。
「わざわざ魔導士団の仕事を休んで領地まで赴いてルアルディ殿を迎えに行き、王都に戻ってからは毎日欠かさず贈り物を贈っているではないか」
「――っ」
シルヴェリオは絶句した。
まさか自分の行動がそのような噂を招くとは思いも寄らなかったのだ。
――ならば誤解を解かねばならない。
弁明の言葉を探すシルヴェリオの隣で、フレイヤがぶんぶんと首を横に振った。
「違います! シルヴェリオ様は私の雇い主であり上司です。贈り物と仰っているのは私の雇用契約の中に含まれている福利厚生の……おやつなんです」
「おやつ……」
ヴェーラが復唱すると、フレイヤは気恥ずかしそうに頬を赤く染める。
「はい、甘い物が好きなので、その……デザートとは別につけていただいています……」
「契約条件に菓子……か。ルアルディ殿は菓子で釣られたと?」
「そ……そう、です……」
穴があったら入りたい。
フレイヤの顔にでかでかと書かれている感情を読み取ったシルヴェリオは、思わず笑い声を零してしまった。
「……ふっ」
これ以上は笑い声を聞かれないよう、片手で口元を覆う。
肩を震わせるシルヴェリオに、フレイヤは恨みがましそうな目で睨ねつけた。
「わ、笑わないでください……!」
「すまない。君が菓子で釣られたと素直に認めたものだから思わず笑ってしまった」
「~~っ!」
自分で認めるのと相手に言われるのとでは話が違う。
ヴェーラから言われて一撃を受けた後にシルヴェリオからも言われてしまうと、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。
恥ずかしさのあまりふるふると震えていると、ちょうど執事頭がティートローリーを押して現れる。
シルヴェリオから聞いていた通り、ワゴンの上には今日のお茶に用意されたチェリーケーキがのせられている。
「カルロ、まずはフレイさんにチェリーケーキを渡してくれ」
「かしこまりました」
紅茶を入れようとしていた執事頭だが、シルヴェリオの指示で素早くティーセットをティートローリーの上に戻してチェリーケーキを切り分ける。
フレイヤは更に顔を赤くした。
まるで自分が我慢できないほどチェリーケーキに焦がれているかのようではないか、とまたもやシルヴェリオにもの言いたげな眼差しを向けるものの、シルヴェリオは口元を微かに持ち上げて微笑んで応酬する。
「遠慮せずに食べてくれ。食べ物は出来立てが一番美味い……だろ?」
「それは、そうですけど……」
普段なら遠慮なく食べるが、今は商談の最中だ。しかも本題にはまだ入っていないのに食べれるわけがない。
戸惑うフレイヤの耳に、くすりと笑う女性の声が聞こえてくる。
ヴェーラの方を振り向くと、彼女もまた口元に弧を描いて微笑んでいた。
「シルヴェリオが言う通り、遠慮は不要だ。いつも通りにしてくれ」
「お、お気遣いありがとうございます……」
「ルアルディ様、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
執事頭のカルロが紅茶を置いてさあさあと勧めてくるものだから、フレイヤは三角に切り分けられたケーキの先をフォークで掬う。
顔に近づけ、くんくんと香りを嗅ぐ。
チョコレートの甘い香りの中に、ほんのりと蒸留酒のほろ苦い香りがする。
「いただきます……」
ぱくりと口の中に入れたフレイヤは、とろんと目を蕩けさせて嬉しそうに咀嚼する。
「……味はどうだ?」
「チョコレートが染み込んだスポンジの中に蒸留酒が効いていて大人の味がします……とっても、美味しいです!!」
「ははっ、本当に美味しそうに食べるな」
一口一口を噛み締めるフレイヤを、シルヴェリオが微笑んで見守る。
その様子を、ヴェーラの赤い瞳がじっと見つめているのだった。