追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
32.歩み寄る姉弟
再びコルティノーヴィス伯爵家の屋敷に戻ったシルヴェリオは食堂へ直行した。彼を出迎えた執事頭のカルロが言うには、ヴェーラがそこでシルヴェリオを待っているらしい。
かくして食堂に足を踏み入れたシルヴェリオは、中に入ってすぐにヴェーラと目が合った。お互いに大きく目を見開いたまま見つめ合い、固まってしまう。
「お、おかえり、シルヴェリオ」
「ただいま、戻りました。……お待たせしてしまったようで、申し訳ございません」
「いや……仕事が思ったより早く終わったんだ」
「……そうですか」
ヴェーラは微笑んでいるものの、その表情はいつになくぎこちない。
それっきり、二人は黙ってしまった。少し離れた壁際で二人の様子を眺めているリベラトーレが「息が詰まりそうだ」とぼやくほどに。
「……」
「……」
「……シルヴェリオ様、どうぞ椅子におかけください」
見かねた執事頭のカルロが助け舟を出すべくシルヴェリオを席に誘導する始末だ。
シルヴェリオが言われるがままに椅子に座ると、給仕をする執事がシルヴェリオとヴェーラの前にワイングラスを置いた。
次いで別の執事がワインを運んでくる。シルヴェリオはそのワインボトルを一目見て銘柄がわかった。コルティノーヴィス伯爵領の特産品の『バラの宝石』。
ふわりとバラの香りがシルヴェリオの鼻腔をくすぐると、彼の脳裏にバラが咲き誇る庭園の情景がふと過る。
それは今日の昼間に彼の目で見たもので、景色の中心に居るのは――バラの香りを嗅ぐフレイヤだ。
一見すると落ち着きがあるように見えるが食い意地が張っていて意外とお茶目な部下のことを思い出すと、シルヴェリオの胸の奥に温かなものが広がった。
自分がゆるりと口元を綻ばせて微笑んでいることに、シルヴェリオはまだ気づいていない。そんな彼の表情が変わる瞬間を、ヴェーラはしっかりと見ていた。
「――さあ、ひとまず家族水入らずの夕食を記念して乾杯するとしよう」
ヴェーラの掛け声にシルヴェリオは黙って首肯した。二人は互いにグラスを掲げ合うと、グラスに口をつける。
グラスを置いたヴェーラの赤い目がシルヴェリオに向けられる。
「こうしてシルヴェリオと一緒に食事をとるのはいつぶりかな?」
「……かなり、久しぶりですね」
シルヴェリオは記憶を遡ってみたが、途中で止めてしまった。思い出すとどうしても、暗い過去がつきまとってくるのだ。
ヴェーラと――家族と共に食事をしたのはいつが最後だっただろうか。覚えていないほど長い間、この屋敷を避けてきたものだ。
(今回の商談がなければ来ることはなかっただろうな)
改めてテーブルに目を落とすと、その上にはまるでパーティーでも始まるのではないかと思うほど豪勢な盛り付けの料理が所せましと並んでいる。
久しぶりにシルヴェリオと一緒に夕食をとれることになって浮かれたヴェーラが張り切って料理長に頼んだ産物なのだが、シルヴェリオがその経緯を知る由もない。
ヴェーラはちらりとシルヴェリオを盗み見た。いつもは淡々としている弟だが、今はぎくしゃくとした動きでグラスを持て余している。
彼のそのような表情を、今まで見たことがあっただろうか。記憶を辿ってみたところで、すぐには思い出せなかった。
思えばこの弟は物心がついた頃から大人びており、周囲の者に感情を悟らせないでいたものだ。
ヴェーラは視線を手元に落とし、グラスを緩慢に揺らして赤い水面を見つめる。
「……ルアルディ殿は本当にいい人だね。芯が通っていて、思いやりがあって、――自分の利益よりも仲間を優先する」
ぽつりと零す声にはどことなく羨望の色がある。
「随分とフレイさんを気に入ったのですね」
「ああ、とっても気に入ったよ。私の話し相手になってほしいくらいだ」
「いったい何を話していたんですか?」
訝しがるシルヴェリオに、ヴェーラは自嘲気味に笑った。
「実はルアルディ殿に、シルヴェリオの動向を探ってくれと頼んだんだ」
ヴェーラの唐突な告白に、シルヴェリオの眉がぴくりと動いた。
姉がそのようなことをする可能性を考えなくもなかったが、よもやそれを明かされるとは思ってみなかったのだ。
じわり、と心に黒い感情が広がる。
それを自分に話すことでどうするつもりなのだろうか。ヴェーラへの警戒が入り混じり、口の中が苦くなった。
急に心が冷えていく感覚がした。シルヴェリオはテーブルの上に乗せた手をぎゅっと握りしめる。
そうして閉じようとする彼の心の扉にそっと手を添えるように、ヴェーラが言葉を続けた。
「ルアルディ殿は頑なに拒んだよ――だけど私を軽蔑するわけでもなく、シルヴェリオにありのままの気持ちを伝えるようにとアドバイスをくれたんだ」
「ありのままの気持ち……?」
シルヴェリオは深い青色の目をぱちぱちと瞬かせてオウム返しする。するとヴェーラはバツが悪そうに頬を指先で掻いた。
「私は……もっとシルヴェリオのことを知りたいんだ。ずっと……仲の良い姉弟になることを夢見ていた」
ヴェーラは気弱そうに眉尻を下げ、懇願するようにシルヴェリオを見つめる。
「私を……姉として頼ってほしい」
「――っ!」
切実な声音で紡がれる言葉に偽りの片鱗は見えない。だからこそシルヴェリオは当惑し、すぐには言葉が出てこなかった。
「これまでずっと向き合わなくて悪かった。――どうしても、勇気がなかったんだ」
「どうして、勇気など……」
愛人の子ども――平民の血が混ざった自分なんかと話すのに、勇気など不要だろうに。そう言いかけて、口を噤んだ。
「私がシルヴェリオに近づけば、それを良く思わない連中にシルヴェリオが傷つけられるのではないかと思って、怖かった」
「……姉上にも怖いものがあるのですね」
「たくさんあるよ。私はかなり臆病な人間だからね。だからいつも起こり得る最悪の事態を考えて行動していた。……コルティノーヴィスの傍系の大人たちや母上の実家の大人たちが、うちの財産や爵位を狙って私たちを謀ろうとしている気配を感じ取っていたんだ。だから毎日生きた心地がしなかったよ」
前伯爵――シルヴェリオとヴェーラの父は愛人に現を抜かしており、子どもたちを顧みなかった。母親は悪意に疎く、彼らの計画に気づいていなかった。たとえ気づいていたとしても、相手は彼女の親戚たちだから抗えなかっただろう。
そのような状況だからこそ、周囲の大人たちは雛鳥を喰らおうとするハイエナの如く目を光らせていたのだ。
「そこで私は、奴らの注意を引くことにしたんだ。彼らの思惑通りにならない令嬢を演じることで、私を後継者の座から引きずり降ろそうとするように画策した」
ヴェーラは信頼できる家臣――執事頭のカルロの協力を得て、早くから領地運営を学んだ。そうして父親に代わって仕事をしていた。
表向きは将来のためだと言っていたが、実際は周囲の大人たちの掌の上で踊らされないように、先手を打ちたかったのだ。
実際にヴェーラの思惑通りに事が運び、父親の弟である叔父がヴェーラの失脚を画策して誘拐まで企てたが、カルロとリベラトーレの二人が防いでくれたおかげで事なきを得た。
「……叔父様が姉上の誘拐未遂で処刑されたのには、そのような経緯があったのですね……」
「ああ、全ては私が企てたことだ。おかげで不穏分子を早くに片付けられたよ」
「俺を避けていたこともまた、その計画のためなのですか?」
シルヴェリオは振り絞った声で問いかける。今までに彼が感じた孤独がありありと滲むその声に、ヴェーラは泣きそうな表情を浮かべてただ一度、頷いてみせた。
「そうだ。本当は、もっとシルヴェリオと話したかった。一緒にお茶を飲んだり、乗馬の練習をしたり――出かけたかった。しかし私たちの仲が良ければ大人たちは引き離そうとするに違いないと思って、怖くて、一歩を踏み出せなかったんだ」
「……」
姉は自分を疎んではいなかった。安堵と喜び――そして、もう少し早くに自分が勇気を持って接していればよかったという後悔が怒涛のように押し寄せ、シルヴェリオを呑み込む。
「今はようやくシルヴェリオを彼らから守れる力を得たというのに、どう話しかけたらいいのかわからなかったんだ。情けないだろう?」
ヴェーラは喉の奥でくっと笑った。自分を嘲笑ったのだ。
「だからシルヴェリオが母上とバラの話をした時、これに便乗してシルヴェリオと話す機会を作ろうとしたんだ。……ルアルディ殿を利用して、ね。私もつくづく嫌な大人になったものだよ」
美しい顔を歪め、今にも泣きそうな表情のヴェーラを見たシルヴェリオは、喉の奥が引き攣るような感覚がした。
「俺はいつか……コルティノーヴィス伯爵家から出て行くための準備をしていました。それが姉上の平穏を奪った俺にできる償いだと思っているからです」
「シルヴェリオが私から何かを奪ったことなんてない!」
ヴェーラは机をばん、と叩いて立ち上がる。彼女のこのように取り乱した姿を、シルヴェリオは物心がついてから一度も見たことがなかった。
「お願いだから、出て行かないでくれ。私を一人にしないでくれ。たった一人の……血を分けた家族なのだから……」
「姉上……」
俯くヴェーラに、リベラトーレが歩み寄る。彼は気遣うようにヴェーラの肩にそっと手を添えて、彼女の体を支えた。
シルヴェリオは一瞬、リベラトーレから鋭い視線を感じたものの、それについて言及しなかった。この秘書がどれほど姉を大切に想い、そばにいるのか知っているのだ。
思えば幼い頃からずっとこの秘書は姉と一緒にいた。二人が話しているのを羨ましく思いながら遠巻きに見ていたのを覚えている。
「俺は、ここを去ろうという気持ちは変わりません。俺も怖いんです。自分の周りにいる人を不幸にさせてしまうと思っていますから――」
「どうしたら、シルヴェリオの不安を拭える?」
ぎゅっと唇を噛み締めるヴェーラに、ふわりと微笑んだ。
「たまにこうして遊びに来ます。その時にこうして一緒に食事をして……とりとめのない話をできたら嬉しいです」
「……そうか」
ヴェーラは肩を落とす。自分の手で涙を拭うと、小さく溜息をついた。
「参ったな。泣き落としでシルヴェリオを思いとどまらせようとしたのにそう言われてしまうと、他の手を考えなければならないな」
「……」
困り果てたシルヴェリオの声に、ヴェーラはニヤリと笑う。
「私たちは似た者同士だな。怖がりで――頑固だ」
「……そのようですね」
シルヴェリオはそう言うと、ふっと笑みを零した。
彼が見せた微笑みにヴェーラが目を見開く隣で、リベラトーレは面白くなさそうに唇を尖らせる。
ヴェーラの心を動かすのは自分でありたいのに、彼女は弟のことばかり考えているから面白くないのだ。
「本当に泣いていたくせに、ヴェーラ様ったら強がりなんだから……」
彼の呟きは誰にも届かず、空気の中に溶けた。
「ひとまず、今は夕食を楽しもう。食後にはとっておきのワインを用意しているから、ゆっくり話さないか?」
「……ぜひ」
シルヴェリオは苦笑しつつ提案を受け入れた。いつもとは違い、はしゃいだ様子のヴェーラを見ていると、冷え切った心が再び温度を取り戻す心地がした。
その夜、コルティノーヴィス伯爵家の屋敷は夜遅くまで明かりが灯り、ようやく分かり合えた姉弟たちが語り合ったのだった。
かくして食堂に足を踏み入れたシルヴェリオは、中に入ってすぐにヴェーラと目が合った。お互いに大きく目を見開いたまま見つめ合い、固まってしまう。
「お、おかえり、シルヴェリオ」
「ただいま、戻りました。……お待たせしてしまったようで、申し訳ございません」
「いや……仕事が思ったより早く終わったんだ」
「……そうですか」
ヴェーラは微笑んでいるものの、その表情はいつになくぎこちない。
それっきり、二人は黙ってしまった。少し離れた壁際で二人の様子を眺めているリベラトーレが「息が詰まりそうだ」とぼやくほどに。
「……」
「……」
「……シルヴェリオ様、どうぞ椅子におかけください」
見かねた執事頭のカルロが助け舟を出すべくシルヴェリオを席に誘導する始末だ。
シルヴェリオが言われるがままに椅子に座ると、給仕をする執事がシルヴェリオとヴェーラの前にワイングラスを置いた。
次いで別の執事がワインを運んでくる。シルヴェリオはそのワインボトルを一目見て銘柄がわかった。コルティノーヴィス伯爵領の特産品の『バラの宝石』。
ふわりとバラの香りがシルヴェリオの鼻腔をくすぐると、彼の脳裏にバラが咲き誇る庭園の情景がふと過る。
それは今日の昼間に彼の目で見たもので、景色の中心に居るのは――バラの香りを嗅ぐフレイヤだ。
一見すると落ち着きがあるように見えるが食い意地が張っていて意外とお茶目な部下のことを思い出すと、シルヴェリオの胸の奥に温かなものが広がった。
自分がゆるりと口元を綻ばせて微笑んでいることに、シルヴェリオはまだ気づいていない。そんな彼の表情が変わる瞬間を、ヴェーラはしっかりと見ていた。
「――さあ、ひとまず家族水入らずの夕食を記念して乾杯するとしよう」
ヴェーラの掛け声にシルヴェリオは黙って首肯した。二人は互いにグラスを掲げ合うと、グラスに口をつける。
グラスを置いたヴェーラの赤い目がシルヴェリオに向けられる。
「こうしてシルヴェリオと一緒に食事をとるのはいつぶりかな?」
「……かなり、久しぶりですね」
シルヴェリオは記憶を遡ってみたが、途中で止めてしまった。思い出すとどうしても、暗い過去がつきまとってくるのだ。
ヴェーラと――家族と共に食事をしたのはいつが最後だっただろうか。覚えていないほど長い間、この屋敷を避けてきたものだ。
(今回の商談がなければ来ることはなかっただろうな)
改めてテーブルに目を落とすと、その上にはまるでパーティーでも始まるのではないかと思うほど豪勢な盛り付けの料理が所せましと並んでいる。
久しぶりにシルヴェリオと一緒に夕食をとれることになって浮かれたヴェーラが張り切って料理長に頼んだ産物なのだが、シルヴェリオがその経緯を知る由もない。
ヴェーラはちらりとシルヴェリオを盗み見た。いつもは淡々としている弟だが、今はぎくしゃくとした動きでグラスを持て余している。
彼のそのような表情を、今まで見たことがあっただろうか。記憶を辿ってみたところで、すぐには思い出せなかった。
思えばこの弟は物心がついた頃から大人びており、周囲の者に感情を悟らせないでいたものだ。
ヴェーラは視線を手元に落とし、グラスを緩慢に揺らして赤い水面を見つめる。
「……ルアルディ殿は本当にいい人だね。芯が通っていて、思いやりがあって、――自分の利益よりも仲間を優先する」
ぽつりと零す声にはどことなく羨望の色がある。
「随分とフレイさんを気に入ったのですね」
「ああ、とっても気に入ったよ。私の話し相手になってほしいくらいだ」
「いったい何を話していたんですか?」
訝しがるシルヴェリオに、ヴェーラは自嘲気味に笑った。
「実はルアルディ殿に、シルヴェリオの動向を探ってくれと頼んだんだ」
ヴェーラの唐突な告白に、シルヴェリオの眉がぴくりと動いた。
姉がそのようなことをする可能性を考えなくもなかったが、よもやそれを明かされるとは思ってみなかったのだ。
じわり、と心に黒い感情が広がる。
それを自分に話すことでどうするつもりなのだろうか。ヴェーラへの警戒が入り混じり、口の中が苦くなった。
急に心が冷えていく感覚がした。シルヴェリオはテーブルの上に乗せた手をぎゅっと握りしめる。
そうして閉じようとする彼の心の扉にそっと手を添えるように、ヴェーラが言葉を続けた。
「ルアルディ殿は頑なに拒んだよ――だけど私を軽蔑するわけでもなく、シルヴェリオにありのままの気持ちを伝えるようにとアドバイスをくれたんだ」
「ありのままの気持ち……?」
シルヴェリオは深い青色の目をぱちぱちと瞬かせてオウム返しする。するとヴェーラはバツが悪そうに頬を指先で掻いた。
「私は……もっとシルヴェリオのことを知りたいんだ。ずっと……仲の良い姉弟になることを夢見ていた」
ヴェーラは気弱そうに眉尻を下げ、懇願するようにシルヴェリオを見つめる。
「私を……姉として頼ってほしい」
「――っ!」
切実な声音で紡がれる言葉に偽りの片鱗は見えない。だからこそシルヴェリオは当惑し、すぐには言葉が出てこなかった。
「これまでずっと向き合わなくて悪かった。――どうしても、勇気がなかったんだ」
「どうして、勇気など……」
愛人の子ども――平民の血が混ざった自分なんかと話すのに、勇気など不要だろうに。そう言いかけて、口を噤んだ。
「私がシルヴェリオに近づけば、それを良く思わない連中にシルヴェリオが傷つけられるのではないかと思って、怖かった」
「……姉上にも怖いものがあるのですね」
「たくさんあるよ。私はかなり臆病な人間だからね。だからいつも起こり得る最悪の事態を考えて行動していた。……コルティノーヴィスの傍系の大人たちや母上の実家の大人たちが、うちの財産や爵位を狙って私たちを謀ろうとしている気配を感じ取っていたんだ。だから毎日生きた心地がしなかったよ」
前伯爵――シルヴェリオとヴェーラの父は愛人に現を抜かしており、子どもたちを顧みなかった。母親は悪意に疎く、彼らの計画に気づいていなかった。たとえ気づいていたとしても、相手は彼女の親戚たちだから抗えなかっただろう。
そのような状況だからこそ、周囲の大人たちは雛鳥を喰らおうとするハイエナの如く目を光らせていたのだ。
「そこで私は、奴らの注意を引くことにしたんだ。彼らの思惑通りにならない令嬢を演じることで、私を後継者の座から引きずり降ろそうとするように画策した」
ヴェーラは信頼できる家臣――執事頭のカルロの協力を得て、早くから領地運営を学んだ。そうして父親に代わって仕事をしていた。
表向きは将来のためだと言っていたが、実際は周囲の大人たちの掌の上で踊らされないように、先手を打ちたかったのだ。
実際にヴェーラの思惑通りに事が運び、父親の弟である叔父がヴェーラの失脚を画策して誘拐まで企てたが、カルロとリベラトーレの二人が防いでくれたおかげで事なきを得た。
「……叔父様が姉上の誘拐未遂で処刑されたのには、そのような経緯があったのですね……」
「ああ、全ては私が企てたことだ。おかげで不穏分子を早くに片付けられたよ」
「俺を避けていたこともまた、その計画のためなのですか?」
シルヴェリオは振り絞った声で問いかける。今までに彼が感じた孤独がありありと滲むその声に、ヴェーラは泣きそうな表情を浮かべてただ一度、頷いてみせた。
「そうだ。本当は、もっとシルヴェリオと話したかった。一緒にお茶を飲んだり、乗馬の練習をしたり――出かけたかった。しかし私たちの仲が良ければ大人たちは引き離そうとするに違いないと思って、怖くて、一歩を踏み出せなかったんだ」
「……」
姉は自分を疎んではいなかった。安堵と喜び――そして、もう少し早くに自分が勇気を持って接していればよかったという後悔が怒涛のように押し寄せ、シルヴェリオを呑み込む。
「今はようやくシルヴェリオを彼らから守れる力を得たというのに、どう話しかけたらいいのかわからなかったんだ。情けないだろう?」
ヴェーラは喉の奥でくっと笑った。自分を嘲笑ったのだ。
「だからシルヴェリオが母上とバラの話をした時、これに便乗してシルヴェリオと話す機会を作ろうとしたんだ。……ルアルディ殿を利用して、ね。私もつくづく嫌な大人になったものだよ」
美しい顔を歪め、今にも泣きそうな表情のヴェーラを見たシルヴェリオは、喉の奥が引き攣るような感覚がした。
「俺はいつか……コルティノーヴィス伯爵家から出て行くための準備をしていました。それが姉上の平穏を奪った俺にできる償いだと思っているからです」
「シルヴェリオが私から何かを奪ったことなんてない!」
ヴェーラは机をばん、と叩いて立ち上がる。彼女のこのように取り乱した姿を、シルヴェリオは物心がついてから一度も見たことがなかった。
「お願いだから、出て行かないでくれ。私を一人にしないでくれ。たった一人の……血を分けた家族なのだから……」
「姉上……」
俯くヴェーラに、リベラトーレが歩み寄る。彼は気遣うようにヴェーラの肩にそっと手を添えて、彼女の体を支えた。
シルヴェリオは一瞬、リベラトーレから鋭い視線を感じたものの、それについて言及しなかった。この秘書がどれほど姉を大切に想い、そばにいるのか知っているのだ。
思えば幼い頃からずっとこの秘書は姉と一緒にいた。二人が話しているのを羨ましく思いながら遠巻きに見ていたのを覚えている。
「俺は、ここを去ろうという気持ちは変わりません。俺も怖いんです。自分の周りにいる人を不幸にさせてしまうと思っていますから――」
「どうしたら、シルヴェリオの不安を拭える?」
ぎゅっと唇を噛み締めるヴェーラに、ふわりと微笑んだ。
「たまにこうして遊びに来ます。その時にこうして一緒に食事をして……とりとめのない話をできたら嬉しいです」
「……そうか」
ヴェーラは肩を落とす。自分の手で涙を拭うと、小さく溜息をついた。
「参ったな。泣き落としでシルヴェリオを思いとどまらせようとしたのにそう言われてしまうと、他の手を考えなければならないな」
「……」
困り果てたシルヴェリオの声に、ヴェーラはニヤリと笑う。
「私たちは似た者同士だな。怖がりで――頑固だ」
「……そのようですね」
シルヴェリオはそう言うと、ふっと笑みを零した。
彼が見せた微笑みにヴェーラが目を見開く隣で、リベラトーレは面白くなさそうに唇を尖らせる。
ヴェーラの心を動かすのは自分でありたいのに、彼女は弟のことばかり考えているから面白くないのだ。
「本当に泣いていたくせに、ヴェーラ様ったら強がりなんだから……」
彼の呟きは誰にも届かず、空気の中に溶けた。
「ひとまず、今は夕食を楽しもう。食後にはとっておきのワインを用意しているから、ゆっくり話さないか?」
「……ぜひ」
シルヴェリオは苦笑しつつ提案を受け入れた。いつもとは違い、はしゃいだ様子のヴェーラを見ていると、冷え切った心が再び温度を取り戻す心地がした。
その夜、コルティノーヴィス伯爵家の屋敷は夜遅くまで明かりが灯り、ようやく分かり合えた姉弟たちが語り合ったのだった。