追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

35.香りの調べ

 フレイヤは香りの調合をメモ書きした紙を調香台の上に置いた。

 ――今回作るのは森を連想させる香水。
 エイレーネ王国の第二王子であるネストレが好んだというシダーウッド――針葉樹の香りをベースに香水を作る。
 
(森の中で休んでいる時のような、心が落ち着く香りにしよう)
 
 フレイヤは目を閉じ、針葉樹が生い茂る森の景色を頭の中に思い描く。故郷にあった、針葉樹の生い茂る森を。
 
 木漏れ日が差し込むその森は、中に入ると樹の温かな香りが迎えてくれる。そして森の奥を進につれて、その空気の中に薬草や花の香りが加わるのだ。

 ゆっくりと瞼を開けたフレイヤは、調香台の棚から真新しい精油の瓶をいくつか取り出す。
 
「シダーウッドとバジルとゼラニウム――まずはこの三つだね」
 
 それぞれの精油の瓶の蓋を開け、瓶の口から試香紙をすっと差し込んで引き抜く。そうして精油をつけた紙を、扇のように広げた状態で手に持った。

 続いてその一枚一枚に鼻を近づけ、順に香りを嗅いでいく。調香師たちはこうすることで、異なる香り同士を混ぜた時の香りを試すのだ。
 
「う~ん……森の雰囲気は出ているけど、少し重いかなぁ……ベルガモットも加えてみよう。あ、ラベンダーを加えた場合の香りも作ってみようかな。ネロリも良さそう」
 
 手元に紙を手繰り寄せ、思いついた香りの配合を記入する。その度にまた試香紙にそれぞれ精油をつけては束にして香りを嗅いだ。
 
 香りは組み合わせにより印象が変わる。
 ベースは同じでも、合わせる香りによって華やかさや爽やかさが加わるのだ。

「……なんだか、よくわからなくなってきちゃった」

 立て続けに香りを嗅いでいると、鼻が麻痺してしまう。
 
 自分の手を鼻まで近づけ、その匂いを嗅いだ。
 いくつもの香りを嗅ぐ調香師たちは、匂いがわからなくなった時にこうして自分の匂いを嗅ぐことで鼻をリセットする。
 
 その後もフレイヤは少しずつ配合を変えて試行錯誤し、いくつもの香りを作っては嗅いだ。
 
「わあ、もう夜になったの?」

 気付けば窓の外は暗くなっており、薄紗のような空に星が瞬いている。
 フレイヤは魔導ランプに明かりを灯す。

「あれ、お菓子が置いてある……」

 レンゾが置いてくれたのか、はたまたコルティノーヴィス伯爵家の執事頭が持って来てくれたのか、開いている調香台の上にお菓子が乗せられた銀のトレーが置かれていた。
 
 トレーには硝子でできた蓋が被せられており、近づけば微かに甘い匂いがした。
 もしかすると、菓子の香りが調香の妨げにならないように配慮してくれていたのかもしれない。
 
 今日のおやつは、ドライフルーツがたっぷりと入ったパントーネだ。
 フレイヤは硝子の蓋を外してパントーネを手に取ると、パクリと頬張る。

 口の中に卵とバターの甘い味が広がる中で、ドライフルーツの酸味が効いており、うっとりと頬を緩めた。
 
「私ったら、お菓子に気づかず調香していたのね……」

 調香する事は、もちろん好きだ。しかし苦しいこともあった。
 カルディナーレ香水工房で働いていた時は、職場の人間関係に悩んで調香することが怖くなることもあったのだ。
 
 香りに集中したいのに、思考がぐるぐると回って集中できず、自己嫌悪に陥って悩む日々。
 そうして心がくさくさとした時の拠り所は、優しい記憶を思い出させてくれる甘いお菓子だった。
 
 ただ、目の前の香りに集中できる。
 思い悩む日々を送ってきたフレイヤにとって、それはとても幸せなことなのだ。
 
 もう一口とパントーネに齧りついていると、扉を叩く音が聞こえてきた。

「ふぁい」
「……食べているところだったのか」
 
 声の主はシルヴェリオだ。
 フレイヤは慌ててパントーネを呑み込むと、扉を開けてシルヴェリオを迎え入れた。
 
 魔導士団の仕事を終えて立ち寄ってきたようで、魔導士の制服を着ている。
 
「シルヴェリオ様、お待ちしてました! 調香したので香りを嗅いでいただけますか?」
「わかった。すぐに試そう」
 
 調香室に着くと、フレイヤはさっそく昼間に調香した香りを再現した。
 試香紙を精油の瓶にくぐらせ、組み合わせごとに束にする。
 
 束を渡されたシルヴェリオは、ぎこちない所作ながらもフレイヤに教えられた通りの方法で匂いを嗅いだ。
 
「……どうでしょうか?」
「たしかにネストレ殿下がつけていた香水に似た香りだが……どこか殿下らしくない香りでもある」
「第二王子殿下らしくない香り……?」
「上手く言えないが、殿下がつける香りにしては柔らかさがあるような気がする」
「そう……なんですね。心を落ち着かせられる森の香りを表現したのですが、雰囲気を変えた方が良さそうですね」
「……なるほど、心を落ち着かせる森の香りか」

 シルヴェリオは試香紙をじっと見つめた。
 まるで試香紙を通して、遠くにある何かに想いを馳せているような眼差しだ。
 
「おそらく、ネストレ殿下は森で心を落ち着かせるようなお方ではないから、そのように感じたのかもしれないな。あのお方がよく行く森は落ち着けるような場所ではないんだ」
「ネストレ殿下がよく行っていた森をご存じなんですか?」
「ああ、王都北部の近くにある森を好んでいると本人から聞いたことがある。行き詰まった時は早朝にそこへ行き――鍛錬をしている……と」
「私、そこに行ってみます!」

 早朝の森。実際にその場所へ行けば、何かわかることがあるのかもしれない。
 香りだけではなく、贈る相手が見た景色や心情のような、香り以外の手掛かりもフレイヤにとっては大切な資料なのだ。
 
 しかし張り切るフレイヤとは裏腹に、シルヴェリオは顔を顰めた。
 
「わざわざ行く必要はない。魔物か野生動物に出くわしたらどうするんだ」
「それでも行くしかありません。その森の香りを嗅ぐと、第二王子殿下らしい香りを見つけられるかもしれないんです」
「……止めたところで、君は聞かないだろうな」

 呆れているような口調だが、その表情は柔らかい。
 
「俺が案内する。明日の早朝に迎えに行くから、準備して待っていてくれ」
「ええと……ありがたいのですが、お仕事は大丈夫ですか?」
「早朝に行って、そのまま出勤するから問題ない」
「でも……」
「危険な場所に行くのに放っておくわけにはいかない。――それに、部下に仕事を押しつけたまま何もしないわけにはいかないからな」

 二人の会話を、扉の外で聞いている人物が一人いた。
 夜のおやつを届けに来た、リベラトーレだ。

「はは~ん、デートの約束か。ヴェーラ様に報告しよう」

 報告を終えたリベラトーレは他の使用人たちにもシルヴェリオとフレイヤがデートをするのだと吹聴した。
 そうして後日、お菓子を届けに来た執事頭が妙に温かな眼差しを向けてくることに、フレイヤは困惑するのだった。
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