追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

66.カルディナーレ香水工房の片隅で

 フレイヤとシルヴェリオがネストレの来訪を受けた二日後の朝。
 アベラルドはカルディナーレ香水工房にあるアベラルド専用の調香室の一角で怒りに肩を震わせていた。

「ちくしょう! このままでは工房が潰れてしまう!」

 拳で調香台(オルガン)を叩くと、棚に並べている精油たちが音を立ててい揺れる。二本ほど棚から落ちてしまい、調香台(オルガン)の机部分の上でゴロリと転がった。
 
「臨時休業になってもう三日だ! これ以上店を閉じたままだと、せっかく集めた客たちが逃げてしまうではないか!」

 父親から受け継いだ王国随一の香水工房が自分の代で潰れるかもしれないという危機に重圧を感じ、苛立っている。
 
 本当なら王族に香水を献上して名声を得て、父親のように男爵位を得るはずだった。野心家の彼は国内外に拠点を増やし、世界中に自分の名を広げていこうとさえ思っていた。
 それなのにここ最近は評判が落ちる一方だ。

 かつての部下だったフレイヤ・ルアルディに難癖をつけてクビにしてからというもの、まるで彼女に呪いをかけられたかのように上手くいかない。

 王妃からはこの工房では香水を買わないと言われてしまい、それに乗じて貴族たちが離れてしまった。
 再び王都に戻ってきたフレイヤをカルディナーレ香水工房の調香師として再度雇ってやり、クビにされたのではなく自主退職だったと言わせて王族や貴族らの信頼を回復しようとしたのに、それさえも邪魔が入った。
 フレイヤが所属しているコルティノーヴィス香水工房には材料を売らないよう手を回していた筈が、コルティノーヴィス伯爵が融通を利かせて材料を売ったのだ。

 コルティノーヴィス伯爵からの援助は大きな誤算だった。
 成長中の商団とはいえ小さな商会をいくつも束ねた弱小集団だと侮っていたのに、膨大な数の材料をコルティノーヴィス香水工房に納品したらしい。それも、魔獣を使って。
 そのせいでアベラルドが出る幕もなく、フレイヤは第二王子のネストレに献上する香水を作り、偶然にもそのことがきっかけで彼が目を覚ましたのだという噂を聞いた。
 
 フレイヤが称賛するのに比例して、アベラルドへの批判が増える。
 ついに貴族たちはカルディナーレ香水工房の香水を買わなくなってしまった。
 仕方がなく平民の豪家に向けて営業をして注文をとってきた。それなのに、材料の調達が追いつかないせいで香水作りが止まってしまった。

 量産品の香水の生産が止まるのは、在庫があるからまだかすり傷程度の被害で済む。問題は特注品だ。
 注文した客たちは遅延に不満を抱き、店にまで言いに来る。そんな客でいっぱいになってしまい、仕事どころではなくなった。

 コルティノーヴィス伯爵の商団は強風被害に遭っていないと聞いて材料の手配を頼んでみたが、あっさり断られてしまった。もう打つ手がない。

「ルアルディが余計なことをしなければ、同じ状況になってもこんなに酷くはならなかったはずだ。全部あいつのせいで……!」

 王宮で見かけたフレイヤの堂々とした姿を思い出しては、ギリギリと歯を食いしばる。

 工房の外に出た途端に人が変わったように振舞って生意気だ。
 この工房で雇ってやらなければ、調香師としての実績さえ手に入らなかったというのに。
 
 椅子を持ち上げて地面に叩きつけようとしたその時、調香室の扉が開き、華奢な女性が入ってきた。
 アベラルドの妻のベネデッタだ。急いで走ってきたようで、立ち止まると肩で息をしている。
 
「アベラルド、大変よ!」

 息継ぎで言葉を切れ切れにさせながら潤んだ目で夫に訴えかける。
 
「そんなに息を切らせて、どうしたんだ?」
「王宮から使者が来てこの手紙を渡されたから、急いで持ってきたの」

 ベネデッタは一枚の封筒を掲げて見せる。それをアベラルドに手渡した。

 アベラルドは近くにある机の上からペーパーナイフを取ると、手紙の封を切る。
 折りたたまれた便箋を開く手に汗が滲む。

 静かな室内に、指先の力で便箋が折れる乾いた音だけがした。
 
 逸る思いを抑えられなくなったベネデッタが口火を切った。
 
「なんて書いているの?」 
「……競技会(コンテスト)の開催を延期するらしい」

 エイレーネ王国を象徴する水晶花の絵に縁どられた王家からの手紙には、競技会(コンテスト)に参加する工房が材料不足の困難に直面していることから、開催日を二週間ほど延期すると書かれていたのだ。

「まあっ、二週間も? 猶予ができたのは嬉しいけれど……それまでに材料を揃えられるのか心配だわ。だって、不自然な強風が起こってことごとく商品を飛ばしていくのだと、お父様が嘆いていたもの」
「手間がかかるが、材料の一つ一つを従業員に持たせて運ばせよう。そうすれば吹き飛ばされないだろうし、競技会(コンテスト)に出品する時に必要な数量の香水は作れるはずだ。量産に必要な材料を揃えられるかはわからない。しかし俺が華やかで高級感のある素晴らしい香水を作って審査員たちの心を掴めば、量産に必要な材料を彼らが手配してくれるに違いない」
 
 今回の競技会(コンテスト)は、国賓に配る香水の作り手を決めるために開かれる。
 故に審査員たちは外国に自国の豊かさを見せつけるために贈る香水を求めているはずだ。アベラルドが華やかで素晴らしい香水を作れるとわかれば、積極的に協力してくれるだろう。
 自分の香水があの陰気なルアルディに負けるはずがない。

「そうね。あなたは貴族が好きな華やかな香りが得意だから、きっと優勝するに決まっているわ。それに、審査員たちにはお父様から賄賂を贈るはずだから、あなたの味方になってくれるはずよ」

 万事解決したも同然だ。
 アベラルドは先ほどと打って変わって晴れやかに笑う。

「幸運の女神が微笑んでくれているらしい。きっと、歴史に名を残す調香師になれという思し召しなんだよ」
「ええ。その通りだわ。王妃様も今はあなたの香水を買わないと言っているけれど、競技会(コンテスト)であなたの香水の香りを嗅ぐと撤回してくれるはずよ。そうすれば、貴族たちはまたうちの香水を買うようになるわ」

 アベラルドとベネデッタはもはや優勝は自分たちのものだと信じて疑わない。
 彼らが女神からの救いだと思っている競技会(コンテスト)の延期が、彼らの仇敵が施した温情とも知らずに。
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