追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

85.ガラスの花吹雪

 階段を下りるフレイヤが目にしたのは、階段の入り口で腕を組んで仁王立ちしているエレナと、その前にいる焦げ茶色の髪と目の男性――先輩調香師がレンゾに羽交い絞めされているという、見るからにひと悶着あった光景だ。

 フレイヤは階段を下りる足を止めて立ち止まる。
 先輩調香師はフレイヤを見つけるとニヤリと唇の端を持ち上げ、まるで獲物を見つけた肉食獣のように目を爛々と輝かせた。
 
「あっ、ルアルディ! やっと出てきたな! お前、ここの副工房長だろう? こいつらに俺を中に通すよう命令しろ。お前に話があるって言っているのに聞かないんだ。こんな無能たちは解雇してしまえ!」

 唐突に聞かされた部下たちを侮辱する言葉に、フレイヤの眉根が微かに寄る。
 
(レンゾさんとエレナさんが無能だなんて……自分に都合が悪いと途端に相手を無能呼ばわりする癖は相変わらずだわ)

 カルディナーレ香水工房にいた時も、フレイヤや彼女と同じように彼の後輩にあたる調香師たちに自分の雑用や面倒な仕事を押し付けようとして断られると無能呼ばわりしたものだ。
 
 それにしても今の彼の態度は度を越している。
 急に押しかけてきたかと思えば、厚かましくも指図するうえに大切な部下たちを侮辱してくる。他の工房――ましてや今は廃業したカルディナーレ香水工房でそのようなことをすれば警備員に取り押さえられ、そのまま警備隊に連行されるだろう。

 それなのに先輩調香師は少しも悪びれていない。
 かつてカルディナーレ香水工房でそうだったように、フレイヤに対してなら何をしても許されると侮っていることが見て取れる。
 
 王国随一だったとはいえ工房という小さな世界で虎の威を借り思うように振舞っていた彼は、自分が外の世界では無力な無名の調香師であることにまだ気づいていない。
 
 ましてや、かつてアベラルドや自分の罵声に怯えて俯くばかりだったフレイヤ・ルアルディが変わったことなんて思いもよらないのだ。
 
 レンゾとエレナを侮辱されたことへの怒りを募らせているフレイヤは、階段の途中で立ち止まったまま先輩調香師に問う。
 
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「ここは人手不足だろ? 俺が調香師になってやるよ。それに、お前に代わって副工房長にもなってやる。お前なんかに副工房が務まるわけがないだろ!」

 先輩調香師のフレイヤに対するあからさまな批判に、エレナとレンゾの顔つきが険しくなる。貴族の屋敷の雨樋に佇むガーゴイルよりも凶暴な表情だ。
 子どもが見たら泣いてしまうだろう。大人のフレイヤでさえ怯えてしまい、小さく肩を震わせたくらいだ。

 まず先輩調香師に食いかかったのはレンゾだ。
 
「あ? フレイヤさんの代わりに副工房長になる? 寝言は寝て言え!」
「そうですよ。あなたみたいに店に押しかけて喚き散らしては人を侮辱するような屑とは違うのです!」

 エレナがレンゾに迎合し、前後から激しい剣幕で責められた先輩調香師は縮こまった。怒鳴ることは慣れているが、怒鳴られることには少しも慣れていないらしい。
 
 あんなにも恐ろしく思っていた先輩調香師の情けない姿を目の当たりにしたフレイヤは小さく溜息をついた。
 
(カルディナーレ香水工房が廃業した今、先輩はただの調香師……ううん、調香師ですらないから私に職を求めに来たのに同僚になるかもしれない人たちを侮辱し、上司になるかもしれない私に命令したら職を与えられると思っているなんて……歪んでいるわ)
 
 自分はともかく、いつもコルティノーヴィス香水工房のために熱心で真摯に働いてくれているレンゾとエレナを無能呼ばわりしたことは看過できない。
 
(大切な人たちを傷つける人を雇うわけにはいかないから、雇用の話は断るしかないわ。シルヴェリオ様には後で、勝手に判断したことを謝ろう)
 
 まだまだ怒りが収まらず、畳みかけるように先輩調香師に言い返すレンゾとエレナのおかげで、フレイヤは先輩調香師の言葉に気落ちすることなく冷静に思考が回る。
 
 フレイヤはレンゾとエレナの名を呼び、先輩調香師に詰め寄る彼らを止めた。

「二人とも、私のために怒ってくれてありがとうございます。だけど、大丈夫ですよ。聞き慣れていますから」
「フレイヤさん、聞き慣れているだなんて……」

 エレナの瞳がうっすらと潤む。
 フレイヤはエレナを安心させるために微笑んで見せると、先輩調香師に向き直った。
 
「――つまり、先輩はコルティノーヴィス香水工房に職を求めに来たのですね?」

 声のトーンをいつもよりやや落とし、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 大切な話をしなければならないのに緊張してしまった時はそうするといいと、ずっと昔に父方の祖父のカリオから教わった事を思い出して実践する。
 
 フレイヤは元先輩調香師の頼みを断ることに慣れていないあまり、緊張して声が震えるのではないかと不安なのだ。
 
 一方でいつものフレイヤらしからぬ様子を目の当たりにした先輩調香師は息を呑む。
 カルディナーレ香水工房では自分が罵れば消え入りそうな声で謝罪するだけだったから、今回も謝罪して自分を雇い、自分に無礼を働いた二人を辞めさせるよう動いてくれると思っていたのだ。

 それなのに、フレイヤは彼の想像通りには動かない。
 若草色の目は揺れることなく自分を見据えており、今までに聞いた事がない威厳に満ちた声で自分に問いかけてくる。
 
「レンゾさんとエレナさんはコルティノーヴィス香水工房の大切な従業員です。そんな二人を蔑むあなたを雇えません。お引き取りください」
「な、なんだと!?」
 
 先輩調香師のは顔を真っ赤にして震え、怒りに歯ぎしりした。
 冷徹な次期魔導士団長と噂されているシルヴェリオを御することは叶わずとも、あの気弱なフレイヤ・ルアルディなら上手く丸め込めると思っていた。しかし侮っていたフレイヤに否定され、頭に血が上ったのだ。

 その時、工房の扉が開いたのだが、怒りで我を忘れている先輩調香師の耳には届かなかった。

「ハッ、お前なんかに話すよりコルティノーヴィス卿に手紙を送った方が早そうだ。偉そうに俺を雇わないとか言っているけど、そもそもコルティノーヴィス卿は愚鈍なお前なんかに人を雇う権限なんて与えないよな。副工房長の肩書なんてどうせただのお飾りなんだろ。あ~あ、わざわざ出向いた損をしてしまったな。香水の事業を始めたばかりで何もわかっていないコルティノーヴィス卿を丸め込んで、お前らなんかすぐにクビにさせてやる!」

 先輩調香師は腕を振り払ってレンゾの羽交い絞めから逃げ出すと、工房から出ていこうと踵を返す。
 そして気づいた。自分がフレイヤに暴言を吐いている間にこの香水工房の主であるシルヴェリオが戻ってきて、自分が最後に吐きつけた言葉を彼が聞いていたことを。

 シルヴェリオの後ろには老人と少女が二人いる。客人なのかもしれないが、先輩調香師にとってそんなことはどうでもいい。
 フレイヤへを蔑む言葉はともかく、シルヴェリオを馬鹿にした言葉を彼に聞かれてしまったことに動揺している。
 
「お、俺は……その……」

 それ以上言葉が続かず、真っ赤になっていた顔は今度は血の気が引いて真っ青になり、震え始めた。
 
 シルヴェリオは眉根に深い皺を刻み、見る者を凍らせてしまうような絶対零度の視線を先輩調香師に向けた。

「君も元カルディナーレ香水工房の調香師でうちに職を求めに来たのか。この二日間、君のような者が手紙を送ってきたり王都の屋敷や工房に押しかけてきたりで迷惑だったのだが……職を請いに来たのにもかかわらず副工房長を侮辱した愚か者は君が初めてだ」
 
 その時、シルヴェリオの背後にいた少女が「なるほど、元カルディナーレ香水工房の……工房長側の人間ね」と小さく呟く。
 
 フレイヤは少女を見ておやと思った。ハーフアップをしてピンク色のリボンで結わえている栗色の髪に水色の目、それに彼女の顔立ちはどことなくフレイヤの知っている人物と似ている。
 ただし少女は可憐な雰囲気でやや垂れ目がちだが、フレイヤの知っている人物は逞しい雰囲気でおまけに目尻が少し上がっていて気が強そうな容姿であるうえに、彼女はいつも髪を一つに結んでいるだけだったのだが。

 少女は手に持っていたトランクを持つ手に力を込めると先輩調香師との距離を一気に詰め――。

「えいっ!」

 おっとりとした掛け声を上げると、トランクを振り上げて先輩調香師の顔にトランクを叩きつける。
 その動きは舞を舞っているようにも見えたが、彼女の手の中にあるトランクは確実に先輩調香師に直撃しており、なんなら彼の頬にめり込んでいる。
 可憐な容姿に反して、なかなか腕力が強いらしい。
 
 トランクからガシャン、パリンとガラスが盛大に砕ける音がする。直撃の衝撃に耐えられなかったのか、トランクの金具が開いて中から色とりどりのガラスが零れ落ちて宙を舞う。
 まるで少女の舞いを彩る花吹雪のように。
 
「ブヘッ……!」

 先輩調香師は短く声を上げると、開いている扉まで吹き飛ばされてその場に倒れ込んだ。
 
 一瞬の出来事に、その場にいた誰もが茫然と佇む。たいていの状況は冷静に対応できるシルヴェリオでさえ、目を見開いて固まっている。
 しんとした工房の中で、少女の鈴を転がしたような音のような澄んだ声がこだました。
 
「私の大切な姉に因縁をつけてクビにして調香師としての人生を奪ったカルディナーレ香水工房長の犬め! お姉様の仇を討ってやったわ!」
< 85 / 91 >

この作品をシェア

pagetop