追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

87.情景の調香師

「本当に、姉を雇っていただけるのですか?!」

 フレイヤの相談を聞いたジョイアの声が弾む。

「ねえ、お父さん。すぐにお姉ちゃんを呼びましょう! きっと喜ぶわ!」
「……」

 グイリオはジョイアの言葉に応えなかった。
 嬉しそうにも戸惑っているようにも見える表情で、床に視線を落としている。
 
「ルアルディさん、失礼を承知で申し上げますが……娘を傷つけないと約束いただけますか? 娘は私たちを心配させないように何事もないように振舞っていますが……それでもたまに、夜中に一人で泣いているのです。あの子はまだ、不当にクビにされた悔しさを払しょくできていません。今も傷ついているのです。あなたがあの傲慢な工房長のようなことをする方には見えませんが、私は不安なのです。また娘が傷つくようなことはあってはならないと、慎重になってしまうのです」

 顔を上げたグイリオの目は揺れている。

 彼の言葉からわかる。
 職場で起きたこととはいえ、大切な娘を守れなかったやるせなさを抱いているのだろう。
 
 フレイヤは忠誠を誓う騎士の如く真摯な眼差しを彼に向けて頷いた。
 
「約束します。絶対に、アレッシアさんに言いがかりをつけて解雇するようなことはしません。もしもアレッシアさんがコルティノーヴィス香水工房で働いていただけるのであれば、契約書にその旨を明記しましょう」
「ありがとうございます。そうしていただけると、安心してあの子をまた送り出せます」

 グイリオの表情は安堵して表情を和らげると、ジョイアとともにルティノーヴィス香水工房を後にして自分の工房に戻った。
 割れてしまった見本のガラス瓶の代わりを持ってくるために、そしてアレッシアを連れてくるために。

     *** 

 それから一時間後。
 コルティノーヴィス香水工房に、ジョイアとグイリオに引きずられるようにアレッシアがやって来た。

 アレッシアはカルディナーレ香水工房にいた時のように栗色の髪を頭の後ろで一つにまとめている。
 白色のブラウスと焦げ茶色のスカートといったシンプルな服装で、靴は黒色のパンプス。
 真っ直ぐな性格の彼女らしい装いだ。
 
 久しぶりに見るアレッシアは、カルディナーレ香水工房にいた頃よりも痩せてやつれているように見える。
 その横顔に、彼女がこれまで経験した苦労を窺える。
 
 フレイヤはアレッシアに微笑み、声をかけた。

「お久しぶりです。アレッシアさん。本日はここまで来てくださりありがとうございます。」
「……別に、父親とジョイアに連れてこられたから来ただけで……」

 渋々来たとは言わなかったが、彼女の表情や声がそう物語っている。
 
「お二人から聞いていると思いますが、コルティノーヴィス香水工房は人手が足りていないので、アレッシアさんがよろしければ調香師として働いていただけませんか?」
「本気なの? 私はカルディナーレ香水工房をクビにされているし、それから二年は調香をしていないのよ?」

 アレッシアの水色の目がフレイヤを睨む。
 戸惑いと不安が綯交ぜになったような感情が見え隠れしている。
 
「はい、カルディナーレ香水工房はもう廃業しましたし、手を組んでいたセニーゼ家も今は没落しました。あの香水工房を追い出されたあなたを雇っても誰も咎めませんし、それにアレッシアさんならすぐに調香師としての感覚を取り戻せるはずです。毎日香りを追い求め、何度も繰り返し調香してきたからこそ、アレッシアさんを指名するお客様がいらっしゃったんです。その努力はたった二年で消えたりしません」
「……っ」

 アレッシアは言葉に詰まり、口を閉じる。
 そんな彼女にもう一押ししようと、フレイヤは言葉を続けた。

「うちの工房から出す量産用の香水を作っていただくことが主で、特注の香水を調香していただくこともありますですが、アレッシアさん独自の香水を発表していただいて構いません。給金についてはコルティノーヴィス卿との相談となりますが……」

 フレイヤがそっとシルヴェリオに視線を投げかけると、腕を組んで話を聞いていたシルヴェリオが口を開く。
 
「カルディナーレ香水工房での給金より多く支払おう。そのほかの条件については全てルアルディさんに任せる」
 
 それだけ言うと、また黙る。
 宣言した通り、本当に給金面以外は全てフレイヤに任せるつもりなのだ。
 
 一つ、また一つとアレッシアの懸念が払拭されていく。
 しかしアレッシアの表情はまだ硬い。
 
「……私への同情で雇おうとしているの?」
「いいえ、優秀な調香師が失われたくないと思ったから、提案しているのです。私はかつてアレッシアさんと同じ工房で働いていたから、あなたの調香の腕前を知っています。あなたは香りで情景を再現することが得意で、あなたに思い出の香りを調香してもらいたいというお客様がたくさんいました。かつて“情景の調香師”と呼ばれていたあなたの力を、コルティノーヴィス香水工房で発揮していただけませんか?」

 フレイヤはできるだけ善良であろうと心掛けているが、その線引きはしっかりしている。
 自分の手が届く範囲まで。そう決めているのだ。

 ましてやコルティノーヴィス香水工房は自分のものではないのだから、同情心だけで人を雇うつもりはない。
 人が増えたら当然、人件費がかかるうえに彼らにコルティノーヴィス香水工房での仕事を教えるという業務が増える。
 それを担うのはフレイヤだけではなく、シルヴェリオやレンゾやエレナも含まれる。
 
 自分の身勝手な行動で彼らに迷惑をかけたくないのだ。

「もし私が雇ってもらったとして、あなたが私を雇ったと知った元カルディナーレ香水工房の調香師たちが便乗するかもしれないでしょ? そうなったら、皆雇うつもり?」
「そんなつもりはありません。私はアレッシアさんが腕のいい調香師だと知っているから引き抜きしようとしているのです。現に今日は一人、カルディナーレ香水工房の先輩から調香師にしてほしいと言われましたが断りました。たとえ不当な理由でクビにされた元カルディナーレ香水工房の調香師だとしても、実力がある方でなければ声をかけませんし雇いません」

 フレイヤはエレナに頼み、グイリオとジョイアが工房に戻っている間に用意した契約書をアレッシアに渡してもらう。
 
 受け取ったアレッシアは契約書にざっと目を通した。
 
 まず初めの項目に、グイリオと約束した内容を記載している。
 不当な理由でアレッシアを批判したり、クビにすることはない。もしも破った者がいた場合、その者はアレッシアに賠償金を支払い、この工房を辞めることになる。
 
 契約書の最後には、既にシルヴェリオの署名がある。あとはアレッシアが署名すれば契約成立だ。
 
「私なんかのために、こんな取り決めを交わしていいの?」
「それほどあなたにはこの工房で働いてほしいのです。それに、同じ職場で働く仲間を不当に傷つける者は必要ありませんので」
「……」

 アレッシアは戸惑いながら、もう一度契約書を見つめる。

「……少しの期間だけ……ひと月だけ働いてみて、それから本当にここで働くかどうか決めていいなら、話しを受けるわ」
「もちろん、そうしていただいて構いません。それではひと月後、正式に調香師として働いていただけるかどうか、回答をお待ちしています。その時まで、その契約書はアレッシアさんが保管してください」

 フレイヤは弾んだ声でそう説明すると、アレッシアに手を差し伸べる。
 
「明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ……よろしく」

 やや気後れしているものの、アレッシアはフレイヤの手を握り返した。

     ***

 それからグイリオが今度こそ安全に持ち運んだ香水瓶の見本を受け取り、アレッシアたちを見送った後、フレイヤとシルヴェリオは調香室へ向かった。
 外務大臣たちに説明する前の事前打ち合わせをするためだ。
 
 香水瓶の見本とデザイン画を見比べるシルヴェリオに、フレイヤは礼を言った。
 
「シルヴェリオ様、この度はアレッシアさんを雇う許可を出してくださりありがとうございます」
「礼には及ばない。調香師を増員するつもりで探していたが――大抵の調香師は独立して自分の工房を持っているか、弟子入りした工房で働いているから引き抜きが難航していたんだ。それに、俺はフレイさんの目利きを信じているから、今後はフレイさんが望むのであれば俺に許可を取らずに雇ってくれると良い」
「……っ、ありがとうございます!」

 誰かに認めてもらえるのは嬉しいけれど、少し照れくさい。
 フレイヤは口元をニヨニヨとさせて喜びを噛み締めた。

 シルヴェリオがその様子を見て微笑んでいるなんて知らずに。
 
「それはそうと、ネストレ殿下から君に頼みごとをされたんだ」
「頼み事……新しい香水の調香でしょうか?」
「いや、オルフェンと共に王宮内にある騎士団の本部に来てもらいたい。例の火の死霊竜(ファイアードレイク)にかけられていた呪術についてオルフェンの見解を聞きたいのだが、今朝ネストレ殿下が王立図書館で見かけたオルフェンに頼んだらフレイさんも一緒に行くことを条件にされたらしい。それでフレイさんにも来てもらうよう頼まれたんだ」
「オ、オルフェン……また第二王子殿下に無礼なことを……!」

 オルフェンならきっと軽い口調で断ったに違いない。
 その光景を想像してしまい、フレイヤの顔から血の気が引く。

「わかりました。私のような部外者がご一緒するのは畏れ多いのですが騎士団の本部へ行きます」
「忙しい時に済まない。お詫びとしてはなんだが、騎士団の本部は王宮にあるから、話し合いが終わったら食堂に案内しよう。騎士や魔導士、それに官僚たちが利用できる食堂があるのだが、そこのザッハトルテが逸品らしい」
「そのザッハトルテの噂を聞いた事があります! 王宮で働く選ばれた者のみが食べられる伝説のザッハトルテと言われているんです! 王宮で働いていない私でも食べていいのですか?!」
「ああ、ネストレ殿下の力になるのだから許されるだろう」
「――っ!」

 フレイヤはまるで女神に感謝の祈りを捧げるように胸の前で手を組み、感激に打ち震える。
 
「ぜひ行きます! オルフェンを担いででも王宮に参上します!」

 先ほどまでの躊躇いはどこへ行ったのやら、フレイヤは王宮へ行く気満々だ。
 
 もはや目的がザッハトルテを食べに行くことにすり替わっているかもしれない。
 そう思ったシルヴェリオは、思わず笑い声を零してしまった。
 
「――ははっ、やはりフレイさんは無類の菓子好きだな」

 フレイヤが念願のザッハトルテにありつけるよう、取り置きしておいてもらおうと密かに計画するのだった。
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