追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
88.あなたの調香台
翌日、コルティノーヴィス香水工房の開店前にアレッシアが出勤した。
ちょうどフレイヤとレンゾとエレナが朝の打ち合わせをしている時だった。
伝えていた出勤時間より三十分も早いため、フレイヤたちは驚きながらアレッシアを出迎える。
「おはようございます、アレッシアさん。とても早く来てくれたんですね」
「お、おはよう……ございます。工房の掃除とかあるかもしれないと思ったから早めに来たのよ」
アレッシアはどこか照れくさそうに挨拶を返す。
掃除なんてただの言い訳だ。
本当は香水工房にまた出勤することが楽しみで仕方がなかったのだが、フレイヤたちには一ヶ月働いてみてから雇ってもらうか決めると言った手前、その事を伝えられない。
しかしフレイヤはアレッシアの言葉を真に受けたため、アレッシアの勤勉さに感銘を受けるのだった。
「ありがとうございます。実はこの工房の掃除はレンゾさんのご友人である妖精の茶色い服の妖精がしてくれているんです」
妖精の茶色い服の妖精とはフレイヤの胸の辺りまでほど背丈のある、人間の子どものような容姿の妖精だ。
茶色の服を着ており、住み着いた家で人間の代わりに家事をするなど手伝ってくれる。その対価は食べ物や衣服で、部屋の片隅にさりげなく供えるのが一般的だ。
しかし気をつけなければならないのは、衣服を与えるとその人間から離れてしまうらしい。
とはいえそれはあくまで人間の間で言い伝えられている話であり、中には衣服を与えられても同じ人間の手伝いをしてくれる妖精の茶色い服の妖精もいる。
レンゾの友人の雄の妖精の茶色い服の妖精がまさにそのタイプで、ボロボロの衣服を着ている彼を見かねたレンゾとその妻が別れを覚悟しながらも新しい服を与えたのだが、その後も毎日家事を手伝ってくれているのだとか。
フレイヤは改めてレンゾとエレナとアレッシアの三人のために自己紹介の時間を設ける。
近くにオルフェンもいたのでオルフェンにも自己紹介するように言ったが、本に夢中なオルフェンがおざなりな挨拶しかしなかったため仕方がなくフレイヤがオルフェンの紹介をするのだった。
オルフェンがシルヴェリオやネストレのことは覚えているようだから人間に関心を持ち始めたのかと思ったが、ただ単に彼らがオルフェンの興味のある話題を持っているから覚えただけのようだ。
気まぐれな妖精は、自分に興味のあること以外は覚えようとしないし付き合おうともしない。
アレッシアが自己紹介しても生返事をするだけで、彼女の方を見ようともしない。
あまりにも失礼な態度だから、フレイヤがオルフェンに代わってアレッシアに謝るのだった。
「なにも、ルアルディさんが謝らなくていいじゃない。気にしていないわ。それよりさっきから気になっていたのだけど、あなたのその恰好……騎士や魔導士の正装みたいね?」
「ええ、実はこの服、コルティノーヴィス香水工房の正装なんです。今日はこの後、用事があって王宮に行くので着てきました」
今日はコルティノーヴィス伯爵家の馬車で王宮に送ってもらい、シルヴェリオと合流した後、宰相と外務大臣たちを相手に香水瓶のプレゼンをした後に騎士団の本部に顔を出すのだ。
騎士団での用事については詳細に言えないので、アレッシアには顔を出すとだけ伝える。
「香水工房の正装だなんて初めて聞くわ。面白い事を考えるのね」
「これはコルティノーヴィス伯爵のアイデアなんです。以前、第二王子殿下に香水を献上する際に、調香師にも正装が必要だと言って仕立ててくださったんです」
「なるほどね……。なんだか、調香師が騎士や魔導士のように偉大な仕事のように思えるから素敵ね。もちろん、以前から誇りある仕事だと思っているけれど……騎士や魔導士に並ぶ特別な仕事のように思えるわ」
そう言い、アレッシアはフレイヤを頭の先からつま先まで見ると、満足そうに微笑む。
「その正装、あなたに本当に良く似合っているわ。思わず見惚れてしまいそうになるもの」
「……っ、ありがとうございます」
フレイヤははにかんだ笑みを返すと、回れ右をして早速アレッシアを二階の調香室に案内した。
褒めてもらえて嬉しいけれど胸がくすぐったく、ニヤニヤとした笑みをアレッシアに見せてしまいそうで、隠したのだった。
二人が階段を上がる様子を、レンゾとエレナは笑顔で見送った。
***
調香室に入ったアレッシアは、辺りを見回して感嘆の溜息をついた。
「調香台を、久しぶりに見たわ」
まるで何十年も離れ離れになっていた大切な人と再会したかのような、恋しさと懐かしさが声音に宿る。
見ると、アレッシアの水色の目には薄っすらと涙の膜が張っている。
窓から差し込む朝日の光に導かれるように、アレッシアは窓辺に近い調香台に歩み寄ると、その表面を撫でる。
今この瞬間が現実であることを確かめるように、何度も。
水色の目はフレイヤの調香台の上に向けられる。
そこに並ぶ調香用の道具を見ると、ついに彼女の目から涙が零れ落ちた。
「ビーカーも試香紙も、なにもかもが懐かしいわ」
「……アレッシアさんの道具は揃えていますので、調香台が決まったら一緒に運びましょう」
フレイヤはアレッシアの涙に気づいていないふりをして、彼女に問う。
「アレッシアさんのお好きな調香台を選んでください」
「……ここにするわ」
アレッシアの視線は、彼女の手元に落ちている。
また掴んだ夢を象徴する、手元の調香台に。
それからフレイヤはレンゾに手伝ってもらいながらアレッシアと一緒に彼女の調香台に精油やビーカーや試香紙を運び込んだ。
あっという間に準備が終わり、レンゾが一階に戻ると、いよいよアレッシアに初めの仕事を伝える時が来た。
フレイヤはアレッシアに、『太陽の微笑み』と『月の微笑み』の入った香水瓶と、二つの香りのレシピを書いた紙を手渡す。
「今日は工房で販売している定番商品の香水を生産してください。香水瓶はこの後、レンゾさんが持って来てくれます。レシピはこちらですが、実際に販売している商品に合わせて微調整してください」
「わかったわ。作った香水は全て隣の調香台に置いておくから、後で確認してちょうだい」
アレッシアはそう言うと、道具を動かして自分の作業のしやすいように配置していく。
その様子を見守っていたフレイヤ、ふと窓の外にコルティノーヴィス伯爵家の馬車が停まっていることに気づいた。
「あ、もうお迎えが来たみたいなので、行きますね。わからない事があったらレンゾさんやエレナさんに聞いてください」
「お迎えって……コルティノーヴィス伯爵家の馬車なのね。平民に馬車を出すなんて……あなたってコルティノーヴィス伯爵家に重宝されているのね」
「いえ、シルヴェリオ様が親切なんです」
「いい方なのね。カルディナーレ香水工房のあのクソ工房長とは違って」
「はい、とっても! シルヴェリオ様はお菓子も用意してくれて、とてもいい上司なんですよ!」
フレイヤは屈託のない笑みを浮かべながら、さり気なくアレッシアにコルティノーヴィス香水工房の良さをアピールした。
この一ヶ月の間に、アレッシアにはコルティノーヴィス香水工房を好きになってもらいたい。
そしてまた、調香師でいてもらいたいのだ。
しかしアレッシアは怪訝そうに片眉を上げた。
「あなたにとっていい上司の基準はお菓子なの……?」
「うっ……お菓子は基準の一つですよ! シルヴェリオ様は従業員が無理をしないように気遣ってくれる心優しい方でもあります!」
「ふふっ、わかったわ」
アレッシアが声を上げて笑うと、フレイヤもつられて笑うのだった。
「それでは、後はよろしくお願いします」
フレイヤは改めてアレッシアに、この工房に来てくれたことへの感謝の言葉を口にすると、調香室を出た。
そうして調香室に一人残ったアレッシアは、窓の外を眺める。
かつてカルディナーレ香水工房で身を竦ませながら調香していた元同期が、舞踏会へ行く令嬢が乗るような馬車に乗る背を見守る。
その晴れやかな姿が目に眩しい。
「私も、頑張ってみようかな」
まだ迷いはあるが、調香台を見ると改めて、香りを作っていたいと思う。
誰かにとって大切な香りを、作り続けたいのだ。
アレッシアは走り去る馬車を見送ると、調香台の棚から調香に使う精油を取り出した。
ちょうどフレイヤとレンゾとエレナが朝の打ち合わせをしている時だった。
伝えていた出勤時間より三十分も早いため、フレイヤたちは驚きながらアレッシアを出迎える。
「おはようございます、アレッシアさん。とても早く来てくれたんですね」
「お、おはよう……ございます。工房の掃除とかあるかもしれないと思ったから早めに来たのよ」
アレッシアはどこか照れくさそうに挨拶を返す。
掃除なんてただの言い訳だ。
本当は香水工房にまた出勤することが楽しみで仕方がなかったのだが、フレイヤたちには一ヶ月働いてみてから雇ってもらうか決めると言った手前、その事を伝えられない。
しかしフレイヤはアレッシアの言葉を真に受けたため、アレッシアの勤勉さに感銘を受けるのだった。
「ありがとうございます。実はこの工房の掃除はレンゾさんのご友人である妖精の茶色い服の妖精がしてくれているんです」
妖精の茶色い服の妖精とはフレイヤの胸の辺りまでほど背丈のある、人間の子どものような容姿の妖精だ。
茶色の服を着ており、住み着いた家で人間の代わりに家事をするなど手伝ってくれる。その対価は食べ物や衣服で、部屋の片隅にさりげなく供えるのが一般的だ。
しかし気をつけなければならないのは、衣服を与えるとその人間から離れてしまうらしい。
とはいえそれはあくまで人間の間で言い伝えられている話であり、中には衣服を与えられても同じ人間の手伝いをしてくれる妖精の茶色い服の妖精もいる。
レンゾの友人の雄の妖精の茶色い服の妖精がまさにそのタイプで、ボロボロの衣服を着ている彼を見かねたレンゾとその妻が別れを覚悟しながらも新しい服を与えたのだが、その後も毎日家事を手伝ってくれているのだとか。
フレイヤは改めてレンゾとエレナとアレッシアの三人のために自己紹介の時間を設ける。
近くにオルフェンもいたのでオルフェンにも自己紹介するように言ったが、本に夢中なオルフェンがおざなりな挨拶しかしなかったため仕方がなくフレイヤがオルフェンの紹介をするのだった。
オルフェンがシルヴェリオやネストレのことは覚えているようだから人間に関心を持ち始めたのかと思ったが、ただ単に彼らがオルフェンの興味のある話題を持っているから覚えただけのようだ。
気まぐれな妖精は、自分に興味のあること以外は覚えようとしないし付き合おうともしない。
アレッシアが自己紹介しても生返事をするだけで、彼女の方を見ようともしない。
あまりにも失礼な態度だから、フレイヤがオルフェンに代わってアレッシアに謝るのだった。
「なにも、ルアルディさんが謝らなくていいじゃない。気にしていないわ。それよりさっきから気になっていたのだけど、あなたのその恰好……騎士や魔導士の正装みたいね?」
「ええ、実はこの服、コルティノーヴィス香水工房の正装なんです。今日はこの後、用事があって王宮に行くので着てきました」
今日はコルティノーヴィス伯爵家の馬車で王宮に送ってもらい、シルヴェリオと合流した後、宰相と外務大臣たちを相手に香水瓶のプレゼンをした後に騎士団の本部に顔を出すのだ。
騎士団での用事については詳細に言えないので、アレッシアには顔を出すとだけ伝える。
「香水工房の正装だなんて初めて聞くわ。面白い事を考えるのね」
「これはコルティノーヴィス伯爵のアイデアなんです。以前、第二王子殿下に香水を献上する際に、調香師にも正装が必要だと言って仕立ててくださったんです」
「なるほどね……。なんだか、調香師が騎士や魔導士のように偉大な仕事のように思えるから素敵ね。もちろん、以前から誇りある仕事だと思っているけれど……騎士や魔導士に並ぶ特別な仕事のように思えるわ」
そう言い、アレッシアはフレイヤを頭の先からつま先まで見ると、満足そうに微笑む。
「その正装、あなたに本当に良く似合っているわ。思わず見惚れてしまいそうになるもの」
「……っ、ありがとうございます」
フレイヤははにかんだ笑みを返すと、回れ右をして早速アレッシアを二階の調香室に案内した。
褒めてもらえて嬉しいけれど胸がくすぐったく、ニヤニヤとした笑みをアレッシアに見せてしまいそうで、隠したのだった。
二人が階段を上がる様子を、レンゾとエレナは笑顔で見送った。
***
調香室に入ったアレッシアは、辺りを見回して感嘆の溜息をついた。
「調香台を、久しぶりに見たわ」
まるで何十年も離れ離れになっていた大切な人と再会したかのような、恋しさと懐かしさが声音に宿る。
見ると、アレッシアの水色の目には薄っすらと涙の膜が張っている。
窓から差し込む朝日の光に導かれるように、アレッシアは窓辺に近い調香台に歩み寄ると、その表面を撫でる。
今この瞬間が現実であることを確かめるように、何度も。
水色の目はフレイヤの調香台の上に向けられる。
そこに並ぶ調香用の道具を見ると、ついに彼女の目から涙が零れ落ちた。
「ビーカーも試香紙も、なにもかもが懐かしいわ」
「……アレッシアさんの道具は揃えていますので、調香台が決まったら一緒に運びましょう」
フレイヤはアレッシアの涙に気づいていないふりをして、彼女に問う。
「アレッシアさんのお好きな調香台を選んでください」
「……ここにするわ」
アレッシアの視線は、彼女の手元に落ちている。
また掴んだ夢を象徴する、手元の調香台に。
それからフレイヤはレンゾに手伝ってもらいながらアレッシアと一緒に彼女の調香台に精油やビーカーや試香紙を運び込んだ。
あっという間に準備が終わり、レンゾが一階に戻ると、いよいよアレッシアに初めの仕事を伝える時が来た。
フレイヤはアレッシアに、『太陽の微笑み』と『月の微笑み』の入った香水瓶と、二つの香りのレシピを書いた紙を手渡す。
「今日は工房で販売している定番商品の香水を生産してください。香水瓶はこの後、レンゾさんが持って来てくれます。レシピはこちらですが、実際に販売している商品に合わせて微調整してください」
「わかったわ。作った香水は全て隣の調香台に置いておくから、後で確認してちょうだい」
アレッシアはそう言うと、道具を動かして自分の作業のしやすいように配置していく。
その様子を見守っていたフレイヤ、ふと窓の外にコルティノーヴィス伯爵家の馬車が停まっていることに気づいた。
「あ、もうお迎えが来たみたいなので、行きますね。わからない事があったらレンゾさんやエレナさんに聞いてください」
「お迎えって……コルティノーヴィス伯爵家の馬車なのね。平民に馬車を出すなんて……あなたってコルティノーヴィス伯爵家に重宝されているのね」
「いえ、シルヴェリオ様が親切なんです」
「いい方なのね。カルディナーレ香水工房のあのクソ工房長とは違って」
「はい、とっても! シルヴェリオ様はお菓子も用意してくれて、とてもいい上司なんですよ!」
フレイヤは屈託のない笑みを浮かべながら、さり気なくアレッシアにコルティノーヴィス香水工房の良さをアピールした。
この一ヶ月の間に、アレッシアにはコルティノーヴィス香水工房を好きになってもらいたい。
そしてまた、調香師でいてもらいたいのだ。
しかしアレッシアは怪訝そうに片眉を上げた。
「あなたにとっていい上司の基準はお菓子なの……?」
「うっ……お菓子は基準の一つですよ! シルヴェリオ様は従業員が無理をしないように気遣ってくれる心優しい方でもあります!」
「ふふっ、わかったわ」
アレッシアが声を上げて笑うと、フレイヤもつられて笑うのだった。
「それでは、後はよろしくお願いします」
フレイヤは改めてアレッシアに、この工房に来てくれたことへの感謝の言葉を口にすると、調香室を出た。
そうして調香室に一人残ったアレッシアは、窓の外を眺める。
かつてカルディナーレ香水工房で身を竦ませながら調香していた元同期が、舞踏会へ行く令嬢が乗るような馬車に乗る背を見守る。
その晴れやかな姿が目に眩しい。
「私も、頑張ってみようかな」
まだ迷いはあるが、調香台を見ると改めて、香りを作っていたいと思う。
誰かにとって大切な香りを、作り続けたいのだ。
アレッシアは走り去る馬車を見送ると、調香台の棚から調香に使う精油を取り出した。