きみの言葉に恋をして
『きみの言葉に恋をして』
その日は金曜日。仕事から帰ってきて小さなアパートのテーブルに置かれたパソコンの電源を入れた。
その横には1冊のノートが置かれている。
パソコンが立ち上がっても、僕はすぐにキーボードに手を置くわけではない。
「……千里、今日はこの部分を一緒に考えたいんだけど、僕一人じゃ上手い言葉が見つからなくてさ」
「そっか。ここが一番難しいよね。だって、この問いかけに『答え』ってないんだもの。読んでくれた人の中のそれぞれが答えだからね。それより……」
平松千里が僕の方に視線を向ける。
「無理しちゃダメってずっと言ってきたのに。私が京介くんの時間をもらちゃったね……」
「そんなのは気にしてないよ。僕は千里との時間が楽しみだった。今はこうしてしか会えないけれど……」
「うん……」
「そのことは言いっこなしだって決めただろう?」
「うん……」
「それよりも、一緒に考えてくれないか。ここは僕も考えるけれど、千里の素直な気持ちが必要なんだ……」
そう、ここの部分は平松千里の絶対的な感性が必要なんだ。
あの当時、たった一人でマンションの屋上に座りながら街灯を見下ろしたり、星空を見上げながら、紡いだ言葉たち。
ノートに書かれているその言葉を字面だけで受け止めちゃいけない。
あの時の千里になりきって、彼女に代わっていろいろな言葉を作り出してきたけれど、今書いている作品の最後は、千里の言葉で終えなければならないと思ってきた。
新橋京介として、いろいろな作品を発表してきた。
社会人作家という部類にいながら、その文章たちは年齢や性別を超えていると評価されてきた。
十代の男女の二人が純粋にやりたいこと、苦しみ、喜び、未来へのあこがれ……。
毎回短編ではあったけれど、楽しみにしてくれる読者もいることは知っている。
それを可能にしてきたのが、この1冊のノートだ。
僕は窓を開けて、空を見上げた。
密集した住宅街。建物の間から見える小さく切り取られたフレームの中に納まるような夜空。でも、今日は星が見える。
この星空は千里が見上げていた全天からの光ではなく、そのうちのほんの一部だろう。
でも、あの当時に千里が見上げていたものとどこかは重なるはずだ。
この星空と手元にあるノートがなければ、僕はここまでの活動を続けることはできなかっただろう。
冬の夜空は空気の濁りが少ないように感じる。そこに深夜帯になって街の明かりが消えてくると、普段は見えていない小さな星たちまで見えるようになってくる。
「この作品が、僕の最後になる。だから、千里の全てを残しておきたいんだ」
「私だけじゃない。優しい京介くんがいたという証拠にもなるんだからね」
僕が病院の先生に呼び出されたのは3か月ほど前だ。
かなり進行している。正直に言えばすぐにでも入院して治療に入らなければならないと。
「もし、このまま自宅で過ごすとしたら、どのくらいですか?」
「半年……。それも保証はできませんが……」
先生は言葉を濁す。でも、僕はそちらの選択をすることにした。
どのみち僕は一人暮らしの身だ。両親には申し訳ないけれど、それ以外には僕がいなくなって迷惑をかける家族や恋人はいない。
それらを全て天秤にかけたとしても、僕には会いたい人がいるからだ。
ただ、その子の住まいは空の上。
これまで何度も躓いたときには、空を見上げて話しかけた。
すると、彼女……千里は夢の中に現れては一緒に答えを考えてくれた。
僕は出版社の担当さんに、自分の病状だけでなく、次に書く作品を最後にすると告げた。ただし、書ききれるかどうかは分からないとも。
担当さんは、それでも書きましょうと言ってくれて、こうして今に至る。
医師から言われた半年のうち、4ヵ月が過ぎた。
『新橋京介最後の作品』と名を打った「君の言葉に恋をした」も出版され、僕は静かに筆を置いた。
この頃には勤めていた会社も辞め、アパートも退去し自宅に戻っていた。
その日を待つ毎日の日課は、近所の散歩に決めている。
以前に千里が住んでいた団地を訪れたことがあったけれど、彼女が旅立ってからは別の住人に入れ替わったようで、ここに彼女はいないとそれ以来足を運ぶことはやめた。
その代わり、公園や河原の土手など、とにかく空が広い場所を探しては歩いていた。本当は夜に歩きたかったけれど、それでは両親を心配させてしまうから仕方ない。
でも、こうして空が大きく見える場所であれば、彼女に僕の居場所を見つけてもらえるだろうか……。
そんな短い日々も終わりをつげ、僕は病院に入ることになった。
その時にお願いをしたのは、窓際のベッドにしてほしいと。これなら、毎晩夜空を見上げながら眠りに入れるからだ。
枕もとのテーブルにはあのノートが置かれている。
「千里……。僕は君の願い通りに頑張れたのだろうか……。千里の願いを叶えることはできたのだろうか……」
「京介くん……」
後ろから聞き慣れた声が聞こえて振り返る。
「千里?」
「これまで無理なお願いしてきてごめんね。ずっと見てきたよ……。私の言いたかったこと、やりたかったこと、みんな叶えてくれた。ありがとう」
「そっか。それならよかった」
それで十分だ。その言葉が聞けたなら、これまでの時間が無駄ではなかったと安堵できる。
「もう一人で頑張ることはしなくて大丈夫だよ。……これからは、ずっと一緒にいてくれるの?」
「千里が嫌じゃなかったら、そのつもりなんだけど……。駄目かな……?」
「ううん。私ね、こっちでも一人だったから、京介くんが一緒にいてくれるなら、もう寂しいって思わなくていいんだね」
「それはお互いさま。これからは一緒に手を繋いでいこう。それでいいかい?」
「うん。ずっと離れないから!」
あの頃と同じ。でもみんなはきっと知らない。少し恥ずかしそうで、自信もないように見えるけれど、それが千里の笑った顔だと知っているから。
学校の図書室で初めて一緒になった日。
あの日見せてくれて、一度は僕に預けてもらえたノートを彼女に返す。
「これからは二人で残りのページを書いていこう。ずっと一緒なんだからさ」
「うん。ずっと一緒。それが一番嬉しい」
僕は千里に手を引かれるように、新しい次の一歩を歩き出した。