二十九日のモラトリアム
カバのハナコと自分語り
「ええなあ。こんなけ歩いても、全然しんどならへんわ」

 独り言のような、チヒロの声が聞こえてきた。

 こんだけ歩いてて言っても、この動物園はそんなに広くないし道も平坦だ。私にとっては、日常より多く歩いたって気はしない。チヒロのパジャマ姿がなんだか痛々しかった。

「フーカはええんか? なんも言わんと手ぇ繋いだまんまやけど」

「えっ? う、うん。別にいいよ……」

 今更聞かれても、困ってしまう。さんざん手を繋いだ後で今更恥ずかしいからって手を振りほどくわけにもいかないし、正直彼氏いない歴が年齢と一緒だからちょっとしたデート気分が味わえてまんざらでもなかったなんて言えない。

「そっか、よかったー。一回やってみたかってんよ。動物園デート」

 振り返ったチヒロが笑う。月の光に照らされて、輪郭が青白く光る。

 同じこと考えてたんだって思うと、なんだか嬉しかった。

 最初で最後のデート。たまたま同じ境遇で出会ったってだけだけど、その相手に選んでもらえて光栄だった。

 初めて会った人とこんな風に手を繋いで、それってどうなのかなって思わなくもないけど、チヒロだからいいやと思えた。

 何故だろう。チヒロは悪い人じゃないって思える。若くして死んで怨霊とか怖い物になっちゃってて、これから取り込まれるホラー展開が待っていたりするのかもしれない。でも、ありえない。繋いだ手から伝わってくる。

 私とチヒロは今、幽霊だ。魂だけの存在。魂と魂が触れ合ってる。だから、かな。

「ぁ……」

 ふれあい広場に向かって歩いていると、チヒロが小さく声を漏らして立ち止まった。

 私も一緒に立ち止まり、チヒロが見ている先を見る。

 ――献花台だ。

 テントの下に白い台が置かれて、そこに色とりどりの花束や果物が置かれていた。案内板には、カバのハナコが五十歳で大往生したことが書かれていた。

「なあ」

 大きなため息をついたチヒロが私を見る。

「自分語りしてもええか?」

「どぞ」

 特にダメだと言う理由もないので、こくりと頷く。チヒロは、献花台近くの植え込みの前に腰かけて、膝に頬杖をついた。反対側の手は、まだ私の手を握っていた。
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