風が吹いたら
撮影が終わり、みんな食堂に移動しましたが、わたしはなぜだかあなたのことが気になって、氷を入れた麦湯を持って応接室へ戻りました。 

あなたは、ひとり片付けに追われていました。
その横顔に夏の日差しが差しかかっています。

煙草を吸っていた先生にコップをひとつ渡して、もうひとつのコップを持ってあなたの目の前にしゃがみました。
あなたの真剣な眼差しは機材に向けられていて、わたしのことなんて目に入っていませんでしたね。
そこでわたしは床に膝をつき、下から覗き込むようにして視線を合わせました。
ふいに視界に入ったわたしに、あなたは驚いて尻餅をつきました。

「わあ、びっくりした」

そう言ってあなたが笑ったとき、窓から風が入ってきました。
それまで一筋も吹かなかったのに、突然。
わたしは、あなたが風を呼んだのだと思いました。

「どうぞ」

コップを差し出すと、氷が音を立てました。

「あ! 機材の上はだめ!」

目の前の鞄にあなたは覆いかぶさりました。
今度驚いたのはわたしの方で、あなたの背広の袖に少しだけ麦湯をこぼしてしまいました。

「あ」

あなたは気にした素振りもせず、鞄を脇に寄せました。

「機材は濡れると壊れてしまうので」

「そんなこと知らなかったんだもの」

「そうですよね。すみません」

ついに言えませんでしたが、あのとき謝るべきだったのはわたしの方でした。
ごめんなさい。

あなたは肩で顔の汗を拭ってから、コップを受け取りました。

「ありがとうございます。いただきます」

ただの麦湯をとてもおいしそうな音を立てて飲み干していきます。
上下に動く喉仏を、わたしはじっと見つめておりました。
揚羽蝶の孵化を観察するみたいに。
息をつめて。

やがて、氷がカシャンとコップの底を打ちました。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

また吹いた生ぬるい風が、あなたの前髪を巻き上げました。
あなたの瞳は、軽井沢でいただいた珈琲ゼリーのような透き通った褐色でした。
口に含んだらきっと、つるりとあまい。
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