風が吹いたら
ある日学校が終わると、わたしはひとりで電車に乗り、あなたのいるお店を探しました。
あなたの言葉を一言一句記憶したはずなのに、なかなか見つかりません。
セーラーの夏服も、内側は汗でしっとりと濡れてきました。
ようやくたどり着いて入口の戸を開けると、大きくきしむ音がしました。
けれど誰の声もしません。
「ごめんくださいませ」
声をかけても返事がないのでお留守かと思いましたが、受付台の奥にある作業場にあなたはいました。
背広ではないあなたは、いつもより少し幼く見えました。
くたりとしたシャツの袖を肘までまくって、一点を見つめ、真剣に手を動かしています。
「お邪魔いたします」
声をかけても返事がないので、わたしは勝手に上がり込み、奥へと進みました。
あなたが向き合っていたのは、黒い山型の箱でした。
斜面のひとつが擦り硝子になっていて、その上に写真のネガが乗せられています。
箱の中には電球が入っていて、擦り硝子を通してネガに下から光を与えていました。
あなたは箱に取り付けられた拡大鏡を覗きながら、針のようなものでネガに触れています。
まばたきもせず、瞳はネガの中の白黒反転したご令嬢にひたと向けられていました。
吐息で手元を狂わせないように息を詰めて。
空気を揺らすことも許されない気がして、わたしの呼吸も止まっていました。
しばらくの間、針先だけが動いていましたが、あなたはふっと肩の力を抜いて身体を起こしました。
両腕を天井に向けて伸ばし、首を回してから机の上にあるヤスリを取ろうとして、ようやくわたしに気づきました。
「え……お嬢さま!?」
あなたは心底驚いた顔をしていましたね。
いい気味、と胸がすく思いでした。
「わざわざ来たのに、何か言うことはないの?」
「ええと、いらっしゃいませ。……お見合い写真ですか?」
わたしは頬を膨らませました。
「わたしはまだ結婚しません。そんなことより、いったい何なの? あの大雑把な説明は。全然見つからなくて帰ろうかと思ったわ」
「すみません。まさかいらっしゃるなんて思わなかったので」
あなたは周囲に目を走らせました。
御付きを探しているのだとわかり、ひとりです、と伝えました。
「ひとり? お車は?」
「お友達にお願いして、運転手には学校からそのままお稽古に行く、と伝えていただきました」
「お稽古は?」
「先生には朝お電話で、具合が悪いから休みます、とお伝えしてあります」
あなたは声を立てて笑いました。
風を呼ぶみたいに。
「大冒険ですねぇ」
本当に大冒険でした。
あなたが思うよりずっと。
わたしはお小遣いなんて持たされていませんでしたから、毎日パン代をいただいて、それで一番お安いパンを買って、残りを貯めて電車賃を工面したのです。
電車に乗ったことはあるけれど、切符の買い方は知りませんでしたし、お店の最寄り駅への行き方も駅員さんに教えてもらって来たのです。
駅を出てからは、歩いても歩いてもお店は見つからず、足取りは重くなり、潤む視界で道もぼやけて見えました。
ですから、もしあなたに会えたらたくさん文句を言ってやろうと思っていました。
何かひとつくらい我が儘を聞いてもらわないと割に合わないと。
それなのに、なんだか思うように話せないのです。