甘美な果実
 通話を繋いだままスピーカーに変更し、スマホを机の上に置いた俺は、人に見られても問題のない程度の適当な私服をタンスから引っ張り出して着替えた。服装に気を遣うような相手ではない。紘は、俺が唯一気楽でいられる相手だ。それ故に雑に扱いがちだが、本来であれば大事にしなければならない人だった。俺と仲良くしてくれる彼がいてくれたからこそ、例の件に関して、最悪の事態にならずに済んだと言っても過言ではないのだから。紘が駆けつけてくれなかったらどうなっていたのか、想像しただけで冷や汗が流れる。もしかしたら、俺はここにはいなかったかもしれない。

『着いた。ほら、早く出てこい、瞬。俺が殴ってやるから』

 スマホのスピーカーから、わざとらしい下手な演技のようにオラオラとした紘の声が響く。着替え終えた俺は、後半の挑発と脅迫は完全無視をして、今行く、とだけ返答し、問答無用で通話を切った。紘の存在が消え、温かさが抜けていくように静まり返っていく部屋を後にする。

 リズムよく階段を下りて玄関へ向かえば、ガラスに人の影が映っているのを目にした。靴に爪先を突っ込んで数歩進み、鍵を開けて扉を横にスライドさせると、先程まで通話で繋がっていた紘と対面した。一瞬だけ目を合わせてから、中へ入るよう紘を促し、背後で扉を閉めて彼を振り返る。と、その時、とんと肩に衝撃が走り、たたらを踏みそうになった。紘に肩を押されたのだ、いや、押されるようにして拳で軽く殴られたのだ。そうだと理解した時には既に、閉じた玄関の扉に押さえつけられていた。

「なんかさ、目が死んでる瞬を見たら、あ、いつもの瞬だなって凄く安心したわ、俺」

「安心した、で、肩を殴って押さえつける意味が分からない」

「俺なりの愛情表現?」

「気持ち悪いな」

「流石、その反応してこそ瞬だな」
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