甘美な果実
 階下で人の気配を感じる。両親だ。外の暗さから鑑みても、既に仕事から帰宅している時間帯だった。気づかなかった。両親は俺の様子を窺いに来ただろうか。部屋に入る時はいつもノックをしてくれるが、俺には何も聞こえなかった。来ていないのかもしれない。分からない。でも、そうしてくれた方がいい。情けなく衰弱したような姿など、両親であっても見せたくはない。

 両親からも逃れるように静かに呼吸を繰り返しているその途中で、意図せず喘ぐような息が漏れた。飢えを感じていた。飢えに腹が鳴りそうだった。篠塚、と呟いた。呟いていた。求めるように、呟いていた。篠塚。篠塚。篠塚。

 挑発されるがままに篠塚を喰ったのが最初で最後かのように、その日から今日までずっと、ずっと、ずっとずっと、血肉を喰えていなかった。薬や飴では当然、十分に満足できるはずもなく、それが遂に限界を迎えてしまったみたいに腹が減っている。定期的にケーキを捕食しなければ生きられない身体に変化しているのだろうか、と決して正常とは言えない頭で考えた。数ヶ月に一度のペースで一家を殺害し、その中にいるケーキを喰っている、どこかの誰かのようだった。

 篠塚。篠塚。俺は篠塚を取り込みたい。もう一度、俺は、もう一度、篠塚のせいにして、篠塚を喰ってしまいたい。俺に喰われたいと願っているのなら、篠塚の方から俺に寄ってきてくれればいいのに。そして、全てを、篠塚の全てを、喰い散らかしてしまいたい。

 溜まる唾液を飲み込んだ。自分の側に放置したままの飴の袋を引っ掴んで、一つ二つ手に取り雑に破いて食べた。噛んだ。砕いた。足りなかった。満たされなかった。もう薬で欲求を落ち着かせるしかないと思った。が、肝心の薬は、一階のリビングに保管してあるために、すぐに飲むことはできなかった。
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