甘美な果実
 両親が血を流して倒れている、死んでいることに混乱し、複数回嘔吐いてしまう俺の耳に、ほとんど抑揚のない、聞いたこともない声が届いた。過呼吸のような症状に苛まれながら、徐に、顔を上げる。玄関先に立ち、両手で四角い箱のようなものを抱え、こちらを凝視している男と目が合ったその刹那、ぞわ、と全身の皮膚が粟立った。一目見て、危険人物だと悟った。一目見て、普通の人間ではないと悟った。一目見て、両親を殺ったのは此奴だと悟った。それほどまでに、狂気的な目をしていた。

 光がなく、闇のように暗く、まるで死んだような、いや、死んでいると言っても過言ではない目を持つ長身の男。その全身を重たく覆う真っ黒な服。そこでふと、以前にも感じたことのある既視感を覚えた。その目を、その姿を、俺は、どこかで。

 記憶を手繰り寄せようと思考を巡らせたところで、凄惨な現実から目を背ける行為を止めさせるかのように、再び吐き気に襲われた。両親の血の臭いを嗅いで、両親の死体を目の当たりにして、号哭するようなこともできずに嘔吐をしてしまうという罪悪感にも襲われ、後を追うように死にたくなった。この地獄から抜け出せるのなら、殺されてもいいと思った。でも、俺に平然と挨拶をして見せた男からは、俺を殺すような気合は感じられなかった。死ねなかった。

 俺に声をかけた男が家に上がってくる。自分が殺したであろう両親の死体を避けながら、俺との距離を縮めてくる。血の臭いに乗って、ケーキの匂いが近づいてきた。男から、その匂いがしている。もっと言えば、男が手にしている箱から、段ボールの中から。その僅かに開いた隙間から。

 気持ち悪さに嘔吐きながらも、甘ったるい匂いに食欲を煽られた。吐いているのに喰いたくて。喰いたいのに吐いてしまう。頭も体もおかしくなりそうだった。気が狂いそうだった。
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