甘美な果実
「挨拶、返してくれると、俺が凄く嬉しい」

 頭上で、淡々とした男の声が降ってきた。挨拶。返して。凄く嬉しい。俺が。こんな状況で、自分の両親が殺されている状況で、その犯人とされる男に挨拶などできるわけがなかった。人を殺した罪悪感など一切感じられない声色で、死体などに興味はなく、まるで目に見えていないかのような態度で、挨拶を返してくれると俺が凄く嬉しい、と宣う男の気が知れなかった。俺は何も喋らなかった。喋れなかった。感情を剥き出しにして、当たり散らすこともできなかった。

 吐瀉物と唾液で濡れた唇を手の甲で拭う俺の前で膝を折った男が、自分の脇に段ボールを置いて。その後、左手で俺の髪を鷲掴み、下を向いていた顔を強制的に上げさせた。息が詰まる。生きているとは思えない死んだ目に、言うなれば、精巧に作られた人形のような目に見下ろされ、そのプレッシャーに押し潰されそうになる。抵抗できなかった。男の望む答えを出さざるを得なかった。そんな気にさせられた。

「こんばんは」

「は……、あ……」

「こんばんは」

「……こ、こ、ん、ばん、は」

 出せずにいた声を必死に絞り出したせいか、単語が更に細かく分裂してしまうほどに途切れ途切れになってしまったが、それでも男には伝わったらしく、凄く嬉しいと言った通りに男は口角を持ち上げた。歪な笑みだった。目が全く笑っていなかった。

 男の歪んだ表情に思わず怯えてしまう俺を見て、何を思ったのか、男は空いた右手で両頬を持ち上げる仕草をした。不気味に感じてしまうその動作に、頬を持ち上げたところで歪さに拍車がかかるだけの行為に、またしても既視感のようなものが背中を走った。俺と男は、初対面の、はず、なのに。そうではないような、気が、する。思い出せそうで、思い出せない。
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