甘美な果実
 俺の髪を乱暴に掴んでいた男の左手が離れる。笑顔を貼り付けていただけの男は段ボールに目を向け、それを両手で抱えた。隙ができた内に逃げて助けを、警察を呼ぼうと、呼ばなければと思ったが、腰も足も言うことを聞かず、胸の不快感も拭えず、ケーキに対する欲求も治まらず、捕らわれ縛られたように俺はその場から身動きが取れなかった。

「瞬くん」

「……え」

「夕飯は食べた?」

「な、まえ……」

「食べた?」

「なんで……」

「食べた?」

 困惑する俺を完全に無視する男に何を言っても届く気配がない。男のペースを崩せない。男のペースに乗せられる。瞬くん。夕飯は。瞬くん。夕飯は。瞬くん。瞬くん。

 どうして名前を知っているのかと疑問を覚え、問い質したかったが、できなかった。できなかったが、ふと、そうか、と思い当たる節に気づいた。父親だ。殺されてしまう前、父親が、俺の名前を呼んでいた。呼んで、危機を知らせてくれた。だから、男は俺の名前を知ったのだろうか。

 でも、違和感があった。その声は、知ったばかりの名前を口にしているようには聞こえなかった。もっとずっと前から知っているような、呼び慣れているような、言い慣れているような、そんな口調で、イントネーションで、ぎこちなさが微塵も感じられなかった。

 一方的に自分のことを知られている。調べ上げられている。もしそうだとするならば、それはあまりにも不愉快で、気味が悪かった。男の目的が分からない。表情がないと言っても過言ではない男のそれからは、何も読み取れない。

 男が俺に興味を持つ理由も、この現状も、理解不能だった。俺は未だに、何も受け入れられていない。両親が殺されたことも。殺人鬼に話しかけられていることも。自分だけが殺されずにいることも。
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