甘美な果実
「瞬くんの好物って、これで合ってる?」

 俺の心境など考えることもなく、知ろうとすることもなく、男はマイペースに話を進め、ケーキの匂いを閉じ込めているであろう段ボールを開けた。隔たりがなくなった、たったそれだけのことなのに、意識が持っていかれそうになるほどの強烈な香りが鼻腔を通り過ぎ、全身を駆け巡った。涎が、溢れた。息が、乱れた。そのケーキを今すぐに喰いたい衝動に駆られ、俺は喉を鳴らしてしまった。喰いたい。喰いたい。死にたくなった。両親が殺されたのに、ケーキを喰いたい欲望に抗えないことに、死にたくなった。ケーキを、喰いたい。喰いたい。死んでしまいたい。

 俺から手を離した男が、段ボールの中に両手を入れた。男は俺を見ていない。隙ができたのに、俺は逃げも隠れもできなかった。男の行動から、目を離すことができなかった。段ボールの中のものが何なのか、男の言う、自分の好物とは、俺の好物とは、何のことを指しているのか。いつの間にか考えないようにしていたことが頭を擡げ、それが更に俺の呼吸を荒くさせた。心臓を暴れさせた。唾液が垂れてきた。喰いたい。喰いたい。死にたい。その中に入れられているものは、何。

 両手でゆっくりと、男が中にあるものを持ち上げた。黒い何かが見えた。それが人の髪の毛だと認識したと同時に、額、眉毛、両眼、鼻、唇、顎、首、そして、何もない空間が姿を表した。全ての情報が一瞬にして脳に届き、思わず発狂しそうになった。

 あれは、あれは、人の、首だ。生首だ。男が手にしているものは、人の、首。切断された、人の、首。首。首。生首。人の。人の。見たことのある、人の顔をした、生首。

 地獄のようだった。地獄だった。その顔の造形に見覚えがありすぎて、ありすぎて、ありすぎて。俺は首を左右に振っていた。息ができない。信じられない。信じたくない。何が起こっている。何を見せられている。その首は。その首は。その首は。
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