甘美な果実
 俺を視界に入れた男の口元に微笑が浮かび上がる。だが、笑っているのは両の口端だけで、俺を捉えている目は、一切笑っていなかった。

 ハイライトのないその双眸は、喜怒哀楽の感情がごっそりと抜け落ちているかのようで。こちらを見ているはずなのに、どこも見ていないように見えた。

 男の両手が徐に動く。長く骨張った指に、丁寧に切り揃えられた爪。剥くと地味に痛い逆剥けすらないその根本。普段から手には気を遣っているのだろうか。それとも、元々綺麗なだけなのだろうか。

 爪の形やその生え際の状態まで見えてしまうくらい視界がクリアで、どういうわけか男の行動もスローモーションのように見えた。数秒にも満たない間に、心底どうでもいいような思考すら脳裏を駆け巡った。

 目だけが無表情の男が、自身の両頬を手動で軽く持ち上げた。ごくりと唾を飲んだ。甘い匂いによるものではなかった。

 端正な顔立ちと相俟って、男はまるで、口元だけに笑みが浮かんでいる、精巧に造られた人形のようだった。しかも、自我のある人形。

 不気味だった。歪だった。笑顔が下手というレベルではない。そんな可愛いものではない。こんな風に笑う人を、俺はこれまでに見たことがない。

 俺を見て意味ありげに薄ら笑いを浮かべたことも、両頬を持ち上げてまで笑みを見せようとしたことも、俺には理解できずに怖気立ちそうになるばかりで。これ以上目を合わせていたら打ちのめされてしまうのではないかと思い、俺は咄嗟に顔を背けてしまった。

 その瞬間、スローモーションが解けるような感覚がして。俺は男とすれ違った。後ろは振り向かなかった。振り向けなかった。数メートル歩いた先で、頬を手で持ち上げたままの男が、自分を振り返っているような気がして。

 時間にして数秒。片手で数えられるくらいのことだった。その数秒で、すれ違うだけのはずだった人が、気味の悪い人形みたいな人に変わった。
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