甘美な果実
ところで、当然のように無視してるけど、ちょっと猫みたいに鳴けって。鳴くわけないだろ。そう言わずにさ、にゃーにゃー言えばいいだけだから。誰が得するんだよ。えー、俺かな。なおさら無理。じゃあ俺以外の人が得する。俺に得はないし、鳴くわけないし、代わりに紘が鳴けばいい。にゃーにゃーにゃーにゃーにゃー。うるさい、騒ぐな、黙れ。理不尽すぎじゃね。
少し癪だが、能天気な紘のおかげで、あの男による異様な空気感が次第に薄れていくのを感じた。ケーキの匂いを仄かに放ち、理解不能な行動をし、それにより、嫌でも印象に残ってしまう人ではあるが、ただの他人であるためそのうち忘れ去っていくだろう。
自分には関係のない人だ。気にしなければ、日常の風景と化してしまうに違いない。ちょっとおかしな人がいたな、で終わりだ。終わりでいい。あの男が再び、俺に向かって奇妙な笑顔を見せることなど、もう。
徐に、後ろを振り返ってみた。すれ違ってすぐはできなかったが、今は距離が空いているはずだ。進行方向は逆なのだから。
視線の先の男は前を向いている。その後ろ姿はマジックで塗り潰したように真っ黒で、唯一黒ではない肌色の両手が身体の横に下がっていた。頬を持ち上げてはいない。無論、いつまでもそうしていたら鳥肌ものだ。
顔を逸らす。前を向く。胸を撫で下ろす。緊張が解け、気が抜けてしまうと、不意に、あの男が漂わせていたケーキの匂いを思い出してしまった。匂いが鼻にこびりついている。濃くはないはずなのに、唾液が溢れてきそうになった。飲み込み、それから、舌を噛んだ。
食欲を刺激するあの匂いにはまだ慣れない。慣れることなどないのかもしれない。それが唯一、味のするものだから。
ああ、そうか、これが、フォークとして生きるということなのか。どんなものを食べても何も感じないから、美味しいケーキを狙ってしまうということなのか。改めて理解した。俺はこの欲求に抗いながら、生きていかなければならないのだ。
少し癪だが、能天気な紘のおかげで、あの男による異様な空気感が次第に薄れていくのを感じた。ケーキの匂いを仄かに放ち、理解不能な行動をし、それにより、嫌でも印象に残ってしまう人ではあるが、ただの他人であるためそのうち忘れ去っていくだろう。
自分には関係のない人だ。気にしなければ、日常の風景と化してしまうに違いない。ちょっとおかしな人がいたな、で終わりだ。終わりでいい。あの男が再び、俺に向かって奇妙な笑顔を見せることなど、もう。
徐に、後ろを振り返ってみた。すれ違ってすぐはできなかったが、今は距離が空いているはずだ。進行方向は逆なのだから。
視線の先の男は前を向いている。その後ろ姿はマジックで塗り潰したように真っ黒で、唯一黒ではない肌色の両手が身体の横に下がっていた。頬を持ち上げてはいない。無論、いつまでもそうしていたら鳥肌ものだ。
顔を逸らす。前を向く。胸を撫で下ろす。緊張が解け、気が抜けてしまうと、不意に、あの男が漂わせていたケーキの匂いを思い出してしまった。匂いが鼻にこびりついている。濃くはないはずなのに、唾液が溢れてきそうになった。飲み込み、それから、舌を噛んだ。
食欲を刺激するあの匂いにはまだ慣れない。慣れることなどないのかもしれない。それが唯一、味のするものだから。
ああ、そうか、これが、フォークとして生きるということなのか。どんなものを食べても何も感じないから、美味しいケーキを狙ってしまうということなのか。改めて理解した。俺はこの欲求に抗いながら、生きていかなければならないのだ。