甘美な果実
 手にした水筒の蓋を開け、喉を潤す紘を眺めてから、俺は物も言わずに俯いた。それが答えだった。言い返さないことが、答えだった。視界に入った左手は、箸を握ったまま静止していた。

 動かない左手を見て、それから、行き場をなくしている右手を見る。ふと、右手を使えば食べられるんじゃないかと、心底現実的ではない馬鹿な考えが脳裏を過ったが、すぐに打ち消した。残念ながら、俺は両利きではない。食べるのも書くのも切るのも投げるのも全部左。左しか使えない俺には、右は言わずもがな、使い物にならなかった。右手で食べる以前の問題だ。右手に持った箸では掴むことすら容易ではないのだ。右利きの人が、左ではできないように。

 気が重くなる。普段では想像もつかないような思考に陥る時点で、俺は随分と疲れているのかもしれない。いつもの自分に戻るためには、やはり、この、ケーキに対する食欲をどうにかしなければ。

 紘の言っていることは間違っていない。誤魔化しきれないほどに、フォークの症状は悪化していた。篠塚を見て、目で追って、食べたい、と唾液を飲む回数も、それを抑えるために舌を噛む回数も、明らかに増えている。それについて目の前の紘は、薄々勘付いているのではないか。だからこそ、酷くなっていると言えるのだ。

 俺がそうであることを知っているのは、恐らく紘だけだ。紘にしか伝えていないし、紘が誰かに言いふらすとも思えない。口が軽そうに見えるが、意外と紘は口が堅いのだ。そういうところは信頼している。その分、裏切られたらショックだが、勝手に信じたのは自分のため、もし吹聴されてしまったとしても紘を責めることはできなかった。そうならないことを切に願うが。
< 31 / 147 >

この作品をシェア

pagetop