甘美な果実
 一家を殺害してケーキを喰っている、例の猟奇殺人鬼の黒い影が、突如として脳裏にチラついた。俺はそっち側のフォークなのか。まさか。違う。そんなはずはない。あんなフォークになんか、なりたくない。絶対に、なりたくない。俺はあの犯人とは違う。違うのに。篠塚を、食べたい。食べたくて、食べたくて。自分の舌を、思い切り噛み続けた。

「おい、瞬、なんか、血が滲んでんだけど」

 唇、と紘が自分のそれをとんとんと人差し指で叩き、大丈夫かよ、とやはり案ずるように声を落とした。俺に余裕がなければ、紘も本調子にはなれないようだ。

 俺は紘に指摘されるがまま、彼の動作につられるようにして自分の唇を触り、指先を見た。薄く、赤い血がついていた。しかし、触った箇所に痛みはない。痛いのは舌の方だ。味覚は死んでいるのに、痛覚は生きている、舌の方だ。恐らく、舌が切れたのだろう。唇ではなく、舌が。そこから流れた血だ。食欲を抑えようとするあまり、自然と力んでしまったらしい。強く噛みすぎた。

「……口、濯いでくる」

「ん、行ってら」

 普段の紘だったら、自分の唇でも喰ってんのかよ、などと面白おかしく揶揄ってきそうなものだが、今はその余計な一言がなかった。いちいち突っ込む気分でもないため、追究してこないのはありがたい。

 席を立ち、口元を隠しながら机と机、人と人の間を縫って教室を出る。室内は冷房が効いていたため、廊下は熱気が強く、暑かったが、教室に比べると息がしやすく感じられた。ケーキの匂いが薄いからだろうか。密室だとどうしても、匂いの逃げ場がなくなってしまう。たった一人の生徒から、他の様々な匂いを打ち消すほどの、思わず涎が溢れるほどの、濃く甘い匂いがしすぎて困る。
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