甘美な果実
 自傷行為じみたそれによる流血は、このままでは噛み千切ってしまうという前兆だ。警告だ。危険のサインだ。そう思うことにして、俺は痛む舌先を出して見た。血が滲んでいる。癖になって繰り返し噛んでいたら、治るものも治らないだろう。ついてしまった噛み癖をどうにかしなければ。

 舌を引っ込め、最後にもう一度血を洗い流し、そろそろトイレを出ようと扉に手を伸ばす。そのタイミングで、向こう側から扉が開かれた。姿を現した人を見て、隔たりがなくなったことで一気に強くなる香りを感じて、最悪、と心の中で呟き、思わず舌を打ちそうになる。相手が悪いわけではないのに。

「あ……」

 俺と目が合った彼、篠塚が、吐息のような声を漏らした。その後すぐ、予期せぬ事態に動揺するように、視線が右へ左へ移動する。篠塚の顔が紅潮していく。

 俺は唇を引き結び、噛み癖がどうのこうのと考えていた側から舌を噛んでしまっていた。ついでに息も、これ以上その匂いを取り込まないように息も止めたが、それは永遠に続けられることではない。早くこの場を去らなければ大変なことになる。溢れ出す唾液が、理性を脅かす。食べたい。

 顔を赤く染めたまま、何か言いたげに口をはくはくとさせる篠塚から目を逸らし、俺は彼の横を通って早々に出て行こうとした。態度が悪かろうがそれで幻滅されようが今はどうでもいい。関係ない。とにかく篠塚から距離を取ることが最優先事項だ。自分を保てているうちに。

「……ま、待って」

 片足が廊下を踏もうとしたところで声がして。ぐいと腕を引かれた。いや、腕を掴まれた。驚いた。驚いてしまった。振り返った。振り返ってしまった。鼻から空気を吸い込んだ。吸い込んでしまった。息を止めていたことを忘れ、思い切り、空気を吸い込んでしまった。
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