甘美な果実
 目と鼻の先で感じる匂いに、呼吸が荒くなる。食べたい。唾液の量が多くなる。食べたい。慌てて息を止めようとするも、異様に苦しくてできない。食べたい。ダメだ。食べたい。目の前にケーキがいる。食べたい。興奮で次第に身体が熱くなる。食べたい。食べたい。ケーキ。

 ガリ、と舌を噛んだ。篠塚の手を、力任せに振り払った。俺の行動に驚愕した表情を浮かべ、そして、自分の手を見て後悔するように、ごめん、と唇を震わせる篠塚を目にし、俺もまた、突如として自責の念に駆られた。でも、謝らなかった。このままでいい。このまま、最低なままでいい。その方がいい。その方がいいから、遠慮なんかしなかった。優しくなんかしなかった。

「俺に触るな、近づくな」

 喋ると、溢れて止まらない涎が外に出そうになり、咄嗟に手の甲で口元を隠して篠塚から顔を逸らした。ごくりと唾を飲む。喉に何かが引っかかるような感覚して、もしかしたら血液も一緒に飲み込んでしまったのかもしれないと思った。どうでもよかった。

 舌を噛み直した。篠塚の返事を待たずにトイレを出た。扉が閉まる直前、ごめん、と再度泣きそうな震えた声がして、罪悪感が押し寄せた。それ以上に、篠塚を食べたかった。今すぐ戻って喰ってしまいたかった。最低だった。

 ふらふらした精神状態のまま教室に戻ることもできず、俺は時折口元を拭ってしまいながら、人気のない場所を目指した。探した。

 鼻にこびりついたケーキの匂いが消えない。呼吸をする度に食欲を刺激され、苛立ち、チッ、と舌を打つ。その舌が痛む。噛み千切るような勢いで噛んだのだ。痛まないわけがない。

 血を止めようとして口を濯ぎに行ったのに、まさかそれが逆効果になってしまうだなんて。それもこれも全部、篠塚のせいだ。篠塚が来たからだ。俺がトイレに行ったタイミングが悪かったのだとしても、それでも、篠塚のせいだ。篠塚のせいで、俺は。
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