甘美な果実
 手で触れる面積を増やし、握って回し、引いたり押したりしてみたが、案の定開きはしない。大人しく手を離し、俺は扉に凭れかかるようにしてその場に腰を落ち着けた。埃っぽかったが、気にしなかった。

 ケーキを前に揺らいでいた理性は、ゆっくりとではあるが凪いでいる。このまま冷静に、慎重に、今後のことを考える必要があった。我慢して、舌ばかり噛み続けるのは自傷行為と同じだ。それももう、限界だ。篠塚と接触して、自ら止めを刺すように勢いよく噛んでしまってから、舌がずっと痛かった。血の味は感じないが、恐らく流血はしている。口内が血塗れなど、事情や状況を知らない人が見たら勘違いするだろう。

 頭を抱えた。大量ではないしても、しなければならないことが渋滞している。まず何から処理すればいいのだろうか。両親に打ち明けることか。篠塚との関係のことか。いや、その前に、食欲だ。食欲を、まずはそれを、どうにか満たさなければ。正常に頭が回らない。

 喉の奥で唸った。意識的に浅くしていた呼吸を、今度は逆に、気を引き締めるように深くした。そこでふと、自分の身体から、もっと正確に言えば、自分の腕から、ほんのりと甘い香りが漂っていることに気づいた。ケーキの香りだった。篠塚に掴まれた方の腕からだった。

 思わぬ箇所から匂ったそれに若干飛び上がりそうになりながらも、反射的に息を止めて自分を殺し、何の変哲もない腕に目を向けた。篠塚の手に掴まれた感覚がたちまちのうちに蘇った。同時に、落ち着いていたはずの食欲まで刺激された。気が狂いそうだった。こんな些細な残り香まで感じ取るフォークの嗅覚を呪いそうになった。

 篠塚に触れられた腕から匂うそれは、本物よりも断然薄い。そのため、症状が酷くなる前であれば十分に堪えられるはずだった。しかし、飢えに飢えてしまっている今となっては、その、本物が持つ仄かな香りにすら頭がくらくらし、全身の血が滾ってしまう。思わず舌を噛みそうになったが、ギリギリのところで堪え、代わりに奥歯を噛み締めた。舌の次は歯に負担がかかった。
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