甘美な果実
 食べたい。舐めたい。篠塚。ケーキ。喰いたい。喰いたい。喰いたい。

 喉を鳴らして、自身の腕をじっと見つめてしまう。奥歯を噛んでも、欲求を抑えるための効果はあまり感じられなかった。

 ここには誰もいない。篠塚本人もいない。それなら別に、食欲に従ってもいいのではないか。内緒にしていれば誰にもバレない。一人でいる時くらい気を抜きたい。

 顔を背けられないほどの誘惑に流される。それをしてはいけない理由は何なのか。我慢しないといけない理由は何なのか。聞かれても、答えられない。言葉に詰まる。篠塚のためだとか、自分のプライドのためだとか、そんな綺麗事すら吐けない。今はただ、ほんの一滴でも、一口でもいいから、ケーキを食べたくて、舐めたくて、そうしたくて、仕方がなかった。

 はっきりしていたはずの意識が、まるで夢の中のような、何者かに操られるような、そんな、ふわふわした感覚に包まれた。

 それをしても、誰も傷つかない。篠塚に知られても、彼が傷つくことはない。寧ろ彼には幻滅されてしまうだろう。気味悪がられてしまうだろう。傷つくのは、己の自尊心だけだ。そうだ。それで済む。それだけで済む。それだけで済むのだ。それだけで済むのなら、何を我慢する必要があるのだろう。何も我慢する必要なんてないのではないか。篠塚には、嫌われてしまった方がいいのだから。

 開き直りだった。自棄だった。諦めだった。唇を舐めた。それは、自制していた行動だった。食べたかった。喰いたかった。俺はフォークだった。篠塚はケーキだった。それだけのことだった。それだけのことが、俺に重たくのしかかっていた。楽になりたかった。重荷を捨てたかった。そのためには、こうしなければならなかった。皮肉にも、ケーキを食すことこそが、最善の策だった。そう思った。
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