甘美な果実
 篠塚の背中を見送りながら、篠塚の香りをできるだけ取り込まないよう浅くしていた呼吸を深くし、篠塚に対して芽生えていた欲求を無事に抑えられたことにひとまず俺はホッと胸を撫で下ろした。もしもの時のためにと隠れて様子を窺っていた紘が現われるなり、え、誰ですか、態度も声色も俺の時と全然違うんですが、と戯けた口調でわざとらしく揶揄い、人見知りですか、人見知りですね、これは完全に人見知りですね、と挑発するように人見知りを連呼する紘を睨んで適当にあしらってしまったのは、つまりはそういうことだったからに他ならない。篠塚と目を合わせてまともに会話をしたのはあれが初めてだった。

 慣れていない人に対しては人見知りだと言われれば強く否定はできないが、繊細な篠塚に、紘と同じような態度を示せるわけがない。一度彼を傷つけた身だ。また繰り返すわけにはいかない。慎重に扱わなければ、いつ壊れるのか、何がきっかけでそうなるのか、分からないのだ。篠塚は紘みたいに、適当に、雑に、どうでもいいみたいには扱えない。だからこそ、気を遣わなくていい紘といる時の方が、素が出せるほどにリラックスできるのだが、わざわざそれを口にするのは憚られた。

 喧嘩をしていた、というわけではないが、篠塚と和解のような真似事をしてからというもの、彼は積極的に俺に声をかけてくるようになった。俺と目が合っただけで顔を紅潮させ、すぐさま目を逸らしていたあの頃とは比べ物にならないほどに変わっている。吹っ切れた、とでもいうのだろうか。まだ緊張しているような言動は散見されるが、俺の前でも、紘の前でも、彼はよく笑うようになっていた。

 以前よりも、一緒にいる時間が増えた。気を抜けば、食べたくなってしまうことも増えた。その気持ちの表れのように、篠塚を目で追うことも多くなった。飴で凌いではいるが、堪らなくなることもあり、その時は、トイレだなんだと適当な理由を作っては一旦離れるようにしていた。紘は気づいているだろうが、何も聞いてはこなかった。篠塚は俺の言葉をそのまま受け取っているのか、疑問を感じている風には見えなかった。
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