甘美な果実
 飴を舐めてからそれほど時間は経っていない。これくらいなら堪えられる。無問題だ。何も知らない篠塚に迷惑をかけることもないだろう。

 呼吸を意識しながら、すっかり履き慣れた靴に手を伸ばす。その時、傍にいる篠塚が、何やら呟くのを耳にした。て、と聞こえた。手、だろうか。思わず篠塚を見て、手、と疑問符をつけて聞き返してしまえば、俺と視線がかち合った彼が、言葉を飲むように唇をキュッと引き結んだ。

 俺は自分の手を、靴の踵を持ち上げる左手を見て、それからまた篠塚に目を向けた。彼は自分の右手を押さえるように触っていた。

 て、は、手、以外に、俺は変換できなかったが、実際に手を意識するような行動を取る篠塚を目にして、多分それで合っているだろうと勝手な判断を下した。手がどうしたというのだろう。

「渕野くん、あの……、手、勝手に触って、繋いで、ごめん」

 突然頭を下げられ、そうして謝られ、反応が遅れた。触って。繋いで。一瞬何のことだろうかと思ったが、すぐに、体育祭でのことかと理解した。

 俺から篠塚に頭を下げて以来、彼は俺に声をかけてくれるようになったが、馴れ馴れしく触れてくるようなことはなかった。そのため、今回勢いであっても接触してしまったことを、ずっと気に病んでいたのかもしれない。律儀な人だ。そう思ったが、彼にそのような気を遣わせてしまっているのは、俺が一度拒絶してしまったからだろう。考えを改めると、申し訳ない気持ちが巡り巡って顔を出した。篠塚が謝るようなことなど何もない。

「なんで、謝る?」

「……渕野くん、あの後すぐ、どこかに行ったから、手、洗いに行ったのかなって、思って」

「……あれは、篠塚が思ってるような意味じゃないから、全然、気にしなくていい」
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