甘美な果実
 本当に、そうだった。言葉通りの意味だった。篠塚に競技で拝借された後、俺は篠塚を置いてその場を離れてしまった。決して、篠塚に手を繋がれたことが嫌だったわけではなく、彼のことを食べたいという欲求が一気に膨れ上がったからに他ならなかった。

 篠塚を味わうような行為は、自分の腕に舌を這わせたあの奇行からは皆無だった。あれが、最初で最後だ。そうしなければ、今まで無理にでも押さえつけていたものが堰を切ったように溢れ出してしまう。自分の身体から、そんな気配を感じていた。

「……そっか、良かった。嫌われてたら、誘えないと思ってたから」

「誘えない?」

「あ……」

 安心したように頬を緩ませ息を吐いた篠塚は、自分の発言にハッとなり、焦ったように目を右往左往させた。意図しない言葉だったらしい。反応しない方が良かっただろうか。

 暫し時が止まったように、三人の間に静寂が広がった。俺は靴の踵を指先に引っ掛けたまま、篠塚は次の言葉を必死に探すように口をパクパクとさせたまま、紘は俺と篠塚の様子を珍しく静かに眺めたまま、数秒が過ぎていった。

 こういう場合、どういった言動をするのが正解なのか、コミュニケーション能力の高くない俺には皆目見当もつかず、無言を貫いてしまうばかりだった。そうすればするほど、定まらない言葉と言葉を繋ぎ合わせようとする篠塚は焦るばかりで。紘も助け舟を出してはくれない。傍観している彼は内心面白がっているのではないか。見世物ではないのに。

 散々迷った挙げ句、とりあえず靴に履き替えようと手にしていたそれを玄関に置いた俺は、先にここに来ていた篠塚よりも早く、外用の靴に足を突っ込んだ。そして、脱いだシューズを靴箱に戻し、さりげなく篠塚を盗み見る。気のせいか、彼の焦燥感は酷くなっているように見えた。俺の、とりあえず、の行動は失敗だったのかもしれない。
< 62 / 147 >

この作品をシェア

pagetop