モフモフの子猫になってセカンドライフを楽しむはずが、冷酷と噂の強面公爵様に捕まって過保護にお世話して離してくれないっ！

サーシャ・ツインベリル

　肌触りのいいシーツが頬に当たって目を覚ました。ふかふかの布団で買ったばかりの布団みたいだ。ひとり暮らしの家で、布団乾燥機はあるが暫く使っていない。顔に当たる光が眩しくて目を開けた。周囲を見渡すと西洋風な部屋で、ピンクの壁紙とクマのぬいぐるみが飾られている。女の子らしい部屋でいい匂いがする。花が飾られているので生花の匂いだと気が付いた。

　あれ？寝ている間に何があったのだろうか。花を買う習慣は私にはない。

　歩きながら考えていると鏡台の前に立った。

「え、なにこれ可愛い。肌がプルプルでシミ一つない。ヤダ、同じ動きしてんの……。って、これってもしかして異世界転生ってやつじゃっ……まさかね」

　鏡に映るとんでもないくらいの美少女がショックを受けた顔をしている。それでもなく可愛い美少女は、寝る前に読んだ小説のヒロインのようだ。誰か嘘だと言ってくれ。転生したと思い込んで高揚した気分が一気に冷め、顔が青ざめるところも同じ表情をしている。

　なんでよりにもよってあの小説なわけ。乾いた笑いが出そうになり顔が引くつく。

　ドアがノックされ返事をするとメイドが近くまで寄ってきた。この顔は見覚えがある。

「エマ……」

　茶色の髪の毛に私と同じ瞳の色。父と平民の愛人から産まれた子供エマ。

「そうです。メイドのエマですよ。サーシャお嬢様」

（え、嘘でしょう。まさか、まさか）

「サーシャ・ツインベリル」

　自分を指差して名前を言うと頷かれた。

「お嬢様のお名前です」

（ぐおおおお、嘘でしょう。なんでよりにもよって一番転生先に不向きな小説なわけ。今年は大殺界だっけ？）

　フラフラした足取りでベッドに横になると私は再び眠ろうと必死になった。どうしてよりにもよって、転生先がドアマットヒロインが悪役令嬢とガールズラブする小説だろうか。エマには体調が悪くなったから、誰も近づけないようにいうと彼女は部屋から出て行った。

　何度眠っても目が覚めてしまい、ここが現実ということを理解するしかなかった。何処かに元の世界に戻れる何かがあるかもしれないと走り回った。取り乱した様子の私を見ても、誰もおかしいと気がつかない事からサーシャも同じような性格だと分かった。

　走り回ってお腹が空いた私は、エマに食事を持ってきてもらった。異世界転生して初めて食べた食事は、悔しいほどに美味しくて元の世界に戻らなくてもいいやと考えてしまった。
　伯爵家のシェフ自慢の自家製パンにソーセージ、コーンスープを食べただけで幸せを感じる。最初は元の世界に戻ると意気込んでいたのに、食事を口にしてメイドからマッサージを受けて眠りにつく。そんな生活を送っているうちに、サーシャとして生きてもいいのではと思うようになった。

（サーシャとして生きてもいいが、やっぱり小説の通りに進んだら……無理だっ）

　憑依ならサーシャに戻ってこいと一生懸命念じた。
　魂を交換しただけなら、元の私の生活にサーシャが馴染むわけがない。

　家と仕事場を往復する日々。家族と仲が悪く一人でいる時間が多かった。恋人もおらず友達もいない。結婚や仕事で忙しくなり疎遠になった。

　会社では不倫をしていたと思われて、転生する直前に参加した飲み会で聞かされた。違う部署の社員が私を身代わりにしていたらしく、出退勤を調べられた。そのおかげでサビ残がバレて給料が計算されて支払われて懐が温かかった。そのせいで適当に買った小説に転生したかもしれないとか、泣けてしまう。

　♦

　ここ数日間で分かった事はやっぱり小説世界に転生してしまったという事だった。転生する前に購入した【転生悪役令嬢はドアマットヒロインに夢中です～王子様の溺愛はいりません～】だと。

　エルメリア国を舞台にした小説で、王子妃教育を幼い頃から受けた公女フレイア・ライヒェンバッハはレイ王子から冷たい対応をされていた。エルメリア国では18歳の時に候補者から婚約者が決められる。候補者たちは切磋琢磨に磨きをかけていたが、実際はフレイアが婚約者に決められていた。候補者たちはフレイアが亡くなった時の予備として教育されているだけ。

　厳しい両親はフレイアの気持ちに寄り添ってくれず、政略結婚の駒としてしか見てくれなかった。実はフレイアは小さい時から男の子よりも女の子の方が好きだったのだ。
　候補者たちが集まるお茶会で可愛い女の子を愛でて可愛がりたいくらいで。王子妃教育が嫌で仕方がなかった。

　そんなある日、祝賀会でサーシャに出会って前世を思い出してしまう。婚約した後に王子を横取りする泥棒猫のサーシャが推しで愛しているという事を。

　サーシャ・ツインベリルは婚約者候補の中で、交流をあまりしない娘だった。国一番の美貌で誘拐されることを恐れていたからだ。サーシャを見た者たちは目を奪われ恋に落ちる。傾国の美少女や青百合の君と呼ばれ両親は家から一歩も出ることを許さなかった。
　フレイアはサーシャを見つめると彼女たちは一目ぼれした。

　サーシャも同じように王子妃教育の犠牲者で、彼女の両親も厳しい教育を強いていた。

　どうしても推しの側にいたいフレイアは王子と他の令嬢をくっつかせ婚約解消をし、サーシャと兄を結婚させて幸せに暮らしましたのオチだ。

　2人の並々ならぬ愛に周囲の人が認めるストーリーは読んでいて、フレイアの独り勝ちじゃんと私は思った。優柔不断なサーシャは自分の意志がなく、何時も他人が提案することに頷くだけ。

　最初は両親の命令で王子に近づいて、次に悪役令嬢に好かれ何だかんだで幸せになる。サーシャは実は私って最強でした系のキャラで、自信がない振りをして結構優秀なのだ。刺繍はプロ級でピアノや料理も何でもそつなくこなせる。

　気合でサーシャの記憶を思い出すと、王子や悪役令嬢に近づいていない。とりあえずフラグは回避している。

　百合小説を読んでいるが、結婚するのはやっぱり男と私は考えている。前世で干物女だった私は男性と付き合ったことがない。リアル男性と話をした事も人よりも少ない方だろう。
　見た目が平々凡々で肉食女子と争う気がなかったし、イケメン好きだったから高望みしすぎていたこともある。

　そんな私だが、女性同士のトラブルを多く見てきた。クラスメイトに職場にイベントに。特に何かに特化したイベントは嫉妬や怨念が凄く、つぶし合いが過熱してどちらかが消えてなくなるまで戦いは続いていた。

　サーシャは美少女だ。典型的なドアマットヒロインにありがちな、美しい絹のような金の髪の毛はぱっつん前髪に腰までまっすぐ伸びている。透き通った青空を思わせるアクアマリンのような瞳は長いまつ毛に縁取られ、鼻先はツンっとして薄くも厚くもない丁度いい形の唇は艶のあるピンク色だ。人形のような体型で、前世の私なら並びたくないくらいの小顔と腰の高さ。華奢なようで体幹はしっかりしているから、ダンスが得意。

　まだ15歳で物語が始まる前。18禁小説だったから登場人物は18歳以上。ストーリーが始まる前で良かったと安堵した。

「決めた、引き籠りになってフレイアに会わない」

　18歳から始まるイベントがフライングする可能性は否めない。だって相手は転生者。しかも強力ガチオタサーシャ推し。どんな方法で近づいてくるのか分からない。少ない友達がサーシャにはいるが、その子達のお茶会で遭遇したくない。

　原作だと街中を歩いている時に、出会い頭にぶつかって髪の毛が絡まってしまい髪の毛を切るイベントがある。この時にフレイアの兄と知り合うが、まだお互い名前を知らない。これが何時なのか分からなかったが、物語が始まる前なのは確か。

　フレイアの兄マリウスもフレイアと同じくサーシャ信者だ。こいつのせいでサーシャのお見合い話は潰されて、フレイアに惚れたら妹と一緒に可愛がり結婚した男。

　こいつらと関わるの本当に無理だ。

　鏡台に座り髪の毛を固く縛ると用意した鋏で髪の毛を切る。刺繍用に用意した小さなハサミだが、糸を綺麗に切るために切れ味は抜群だ。容赦なく切り落としていると後ろにエマがいた。

「なにをしているんですかああああああ」

　叫び声が聞こえて振り返るとエマと両親が集まってきた。しまったと思ったのも束の間、結構切り過ぎて髪の毛の一部を根元まで切っていた。考え事をしながら切ってはいけないと学んだ。

「まあ、可愛いサーシャちゃん。これでお屋敷から出る必要がなくなったわね」

「しかし、まあ見事に切り落とした」

「何処かでサーシャちゃんを見かけた人間が会いたいって手紙が来ているのよ。レイ王子の花嫁になるのだから誰にも指一本触れさせたくないわ」

　あまりにも下手糞だったため、これからは髪の毛は自分で切ってはいけないと軽く注意された。食事の時間になり話は終わった。

「せっかく綺麗な髪の毛が」

「くよくよしないで。髪の毛なんて生えてくるじゃない」

　エマは悲しんでくれたが、母親の言動がおかしくて引いた。髪の毛を箱に保管し、引き出しの中に入れることにした。神殿に寄付してもいいが、変態兄妹が回収するかもしれない。とにかく、前世を思い出すきっかけになりたくないため私は逃げる。