三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
ドアの向こうには武者が立っていた。

大きなマグカップを持って、呆然としている。

マグカップからは湯気が上がっている。

立ち上る湯気はこの世で1番暖かいものに見えた。

「あの、引っ越すの?」

ヤケクソになっていたから、本当に決心したわけではなかった。

でも武者の顔がなんだか嬉しそうだったから、私は思い直した。

「と思ったけど、まだ決めてない」

案の定、武者は少し残念そうな目をして利香を見た。

「とりあえず、俺が焙煎したドクダミ茶です」

焙煎などと偉そうに、と思ったけれど温もりに飢えに飢えている利香は、マグカップを受け取りまずは暖かいカップを両手で包んでかじかんだ手を温めた。

ほんのり皮膚に温もりが広がる。

今度はコクリと飲んでみた。

喉から食道を通る熱が体内に染み渡っていく。

少しくせのある苦味が、体によさそうだ。

「落ち着いた?」

「なんかあったまった」

「ならよかった。じゃあ決心した?」

「は?」

「だから引っ越すって話」

「なんか私に消えてほしいみたいだね」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだよね」

「それにしては急かすじゃない」

「いやあ、これでも一応俺も決心して一ノ瀬さんを訪ねたわけでさ」

玄関の横にぶら下げてあるトールペイントで作った『Ichinose』という表札を武者が触っている。

専門は布雑貨だったが、トールペイントも少しかじっていたからその時に作った表札だ。

Wel come という文字が苗字の下に並んでいる。

誰か来てもお茶菓子も出せないくせに、見栄を張っているようで惨めだ。

でも、武者は何を決心して来たというのか。

利香はドクダミ茶を飲み干し、マグカップを武者に渡しながら怪訝な目を向けた。

「あ、いや、あのさ」

何を言い淀んでいるのか。

早く出て行け、となかなか言えないのか。

「ええと、俺って、一ノ瀬さんのタイプかな?」

「は?は?はあ?」

「だ、だからね、そうだったらマズイというか」

「全然。まるで逆」

「そうなの?全然好みじゃない?」

「うん。全然」

「そ、そうか。そうだよね。いつも俺を見る時、睨みが利いてるもんね。タイプならもっと優しい目をして見るよね」

「まあ、そうだね」

「ところでさ、一ノ瀬さんには何か目的があるのかな。その、すごく節約している雰囲気だから」

家の中から漂う冷気、ぼんやりした明かり。

武者は私の背後の部屋の奥に目を向けた。

「まあね」

「どんな?」

「言いたくない」

「そうか」

「あの。ご馳走さまでした」

のらりくらりと話す武者に痺れを切らした。

しかも、さっき自分が言った恥ずかしい言葉を引きずっていたから、早く帰って欲しかった。

「利害が一致したみたいだよ」

「え?」

「俺も一ノ瀬さんもある目的があって節約している。そして、俺は一ノ瀬さんを、一ノ瀬さんは俺を、全く意識していないってこと」

「あの・・・だから?」

「一緒に暮らそうよ」



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