三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
朝、ザザーッと水を撒く音が聞こえて目が覚めた。

 同じ間取りなのに、一瞬自分がどこにいるのか利香はわからなくなった。

 鼻をクンクンと動かす。

 匂いが違う。

 自分の部屋では自分の匂いになど全く気づかなかったけれど、ここには武者の匂いが充満している。

 新しい生活が始まったんだ、と実感してベッドから出た。

 部屋の扉を開けると、ダイニングを通して真正面にある玄関の扉が開けっ放しになっていて、Tシャツ姿の武者が玄関をデッキブラシで擦っていた。

 寒風が吹き抜ける部屋の真ん中で、寝起きの利香はぼーっと武者を見て、サブッ、と体を縮めた。

 ただでさえ寒い部屋に冷気を取り込んでどうするんだ。

 しかも光熱費は割り勘。

 そんなにジャンジャン水を使ってどうする。

 ふつふつと怒りが湧く。

 モチーフ繋ぎのショールを頭から被り、利香は玄関に向かった。

「寒い」

「あ、ごめんごめん。すぐ終わるよ」

「閉めていい?」

「あ、ちょっと待って」

「冷蔵庫の部屋を冷凍庫にする気?」

「そういえばね、昨日、大家さんに貰ったキュウリが朝凍ってたよ」

 武者が笑う。

「笑ってる場合?」

「ごめんごめん」

「寒い!寒い!寒い〜!」

「暑い、暑い、暑いなあ〜」

「何それ」

「人間の脳って、思い込みで体もそれに反応するんだよ」

「暗示ってやつですか」

「そう、それ」

「馬鹿じゃないの?」

「一ノ瀬さんはお茶でも飲んでてよ」

 ああ、腹が立つ。

 頭がカッカしてきたらあまり寒さを感じなくなっていた。

 利香は台所に行き、ヤカンに沸かしたドクダミ茶をマイカップに注いだ。

 お茶、とか気取って言ってるけど、ドクダミ茶だからね、とまだ治らない怒りをドクダミ茶にぶつける。

 ついでに武者のカップにもドクダミ茶を注ぐ。

 2つのカップから立ち上る湯気が、玄関から流れ込む風に煽られ、重なり合う。

「わ、サンキュー」

 掃除を終えた武者がいつのまにか隣に立っていた。

 シンクに向かって並んで立つのは昨夜からのスタイルだ。

 額に汗を浮かべた武者が、「っあ〜」と声を上げて一口飲んだ。

「ねえ、その汗」

「あ、臭い?」

「そうじゃなくて、暖を取るために朝から掃除?」

 武者の額が台所の小窓から差し込む陽に照らされている。

「あ、それもありか」

「え?」

「風水だよ。良い気は玄関から入るんだって。玄関が汚れていると良い気が入りたくなくなるんだって」

 聞いたことはあるし、そもそも当然だろう。

「他にも、鏡とか観葉植物とか、ラベンダー色のマットとか。全部良い気を招くためなんだ」

「ふーん。なるほど」

「でもさ、全てっていうとなかなかできないし、完璧を求めるタイプじゃないから、一応玄関だけはね」

 武者は手の甲で額を拭って、ドクダミ茶をまた一口飲んだ。

「あ、じゃあ一ノ瀬さんのタイプって完璧な人なんだね」

「え?そういうことになるのか」

「違うの?」

「そ、そうだよ。やっぱり誰だって完璧な男を求めるんじゃない?」

「そうか。安心した」

「なんで?」

「だから、少しでも一ノ瀬さんのタイプに俺が被ってたら困ると思って」

「ないない」

 自惚れるなよ、と利香は武者を睨んだ。

 出かける支度を整えていると「一ノ瀬さ〜ん」と武者が呼んだ。

 明らかに年季の入った水筒を武者が差し出した。

 中身は・・もちろん、わかっている。

「あったまるよ」

「武者はいつも持っていくの?」

「毎日じゃないけど。ほら、完璧な男じゃないし」

 武者が笑う。

 白い歯が眩しい。

「ありがとう」

 玄関に向かう利香に「いってらっしゃい」と武者の声がかかる。

「い、いって、きます」

 そんなひとことがスムーズに出てこない。

 慣れない2人の共同生活の始まりの朝だった。

 

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