三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
出勤すると更衣室はいつも以上に賑わっていた。

 利香は水筒をロッカーにしまうと制服に着替えた。

「じゃあ、ひとりいくらにする?」

 なんだか嫌な予感しかしない。

 飛び交う声はこの会社の唯一のイベント、バレンタインデーに向けてのやり取りだ。

 手芸用品専門店だから、他の会社に比べると男性社員の数は少ない。

 それでも各課に最低2人は男性がいるから、全部合わせれば10人にはなる。

 利香の課にも男性は2人。

 課長の大沢と主任の藤堂。
 
  2人とも既婚者なんだから、チョコぐらい妻から貰えばいいのに、と思う反面、少なからず大沢に好意を持っている利香は、毎年大沢には個人的にチョコを渡していた。

 去年までは男がいたし、別に大沢をどうこうしようなんて思っていなかったけど、日頃お世話になっている感謝の気持ちと思えば、何の弊害もない。

 でも今年は無理だ。

「利香、それでいいよね?」

 ミキが小さなブラジャーからこぼれんばかりの巨乳を晒して利香に向き合った。

 武者のタイプ。

 ミキの胸に目が釘付けになる。

「ちょっと今さら何?」

「いやいや、別に。で、何?」

「やだな。聞いてなかったの?バレンタインの予算」

「それって今年もやるの?このご時世に?」

「なによ、そのご時世って」

「だってコロナだし」

「関係ある?」

「イベントはできるだけ自粛という方向で」

「大勢集まるわけじゃないじゃん。ってか、直接渡すのが嫌ならデスクの上に放り投げておけばいいんだし」

「そういう問題じゃなくて」

「ま、私は参加するよ。だって今年が最後かもしれないし」

「なんで?」

「なんでって、そりゃあ決まってんじゃん」

「け、け、結婚?」

「それ以外にある?」

 ミキはまた薬指のダイヤをキラッと輝かせた。

 何カラットでいくらなんだろう。

 それを質屋に持っていけばいくらぐらいになるんだろう。

 友人のご祝儀って、相場はいくらだっけ?

 もう頭がパニックになって、利香は慌てて更衣室を飛び出した。

 非常階段を駆け上ると、階段を下りてくる大沢と鉢合わせした。

「一ノ瀬、おはよう」

「あ、課長、おはようございます」

「あれ?お前、肌きれいになったんじゃない?」

 咄嗟に両頬を手で覆う。

「セクハラとか言うなよ。褒めてんだからさ」

 そうだ。大沢はいつも直接言葉にして褒めてくれる。

 布の裁断の仕方が様になっている。

 ハサミの入れ方がプロ並みでにくい。

 布を裁断しているときの顔が悦に入っている。

 褒められて悪い気はしないし、それが毎日となると好きになる。
 
 人なんてそんなものだ。

 でも今の利香は褒められようが告白されようが抱かれようが、大沢にチョコは渡せない。

「あの課長。バレンタインの・・・」

「おお。毎年期待してるよ。いつもありがとな」

 そして爽やかに階段を下りていった。

 ほぼ利香のタイプ。

 爽やかで颯爽としていて仕事ができてイケメン。

 ただ既婚者、というワードがあまりにも大きすぎて、利香のタイプから除外されている。

 大沢をぼんやり見送りながら、あとで徴収される金額について考えた。

 武者と暮らすことになったから今月から家賃は半分、光熱費も半分になる。

 でもふたりで暮らすのだから光熱費は二人分。

 単純に考えれば今までとほぼ変わらないんじゃないだろうか。

 食費も別。

 だから家賃の半分の金額だけが浮くことになる。

 それも貯金しようと思っていた。

 それもこれも、201号室を借りていたころの後悔に繋がる。


 昼休憩、利香は屋上でコンビニで買ったおにぎりとミキがくれたクッキーを食べていた。

 水筒のドクダミ茶が、乾いた口を暖かく湿られせた。

 スマホを取りだし電話をかけた。

 ちょうど病院では電話が許される時間帯だ。

「もしもし、お母さん?」

『利香。どうしたの?』

「別になにもにゃーわ。もうすぐバレンタインデーだで」

『だもんで何だわ。私は女だわ』

「お母さんだっていつも私にチョコレートケーキ焼いてくれたじゃにゃー」

 利香は屋上から低く見える空を見上げた。

『まだ気にしとるの?』

 母の声が少しくぐもった。

 利香は首を振ったが、それは母には伝わらない。

 母が倒れたと連絡があった日、利香は201号室で男に抱かれていた。

 何度もスマホが震えているのに、見て見ぬふりをした。

 もちろん、まさか母が倒れたという知らせなどとは夢にも思わなかった。

 でも母が救急車に揺られて呻いているとき、自分は別の喘ぎ声をあげていたかと思うと、どうしても自分が許せなかった。

 その男には未練などない。

 ということはたいした男じゃなかったのだ。

 それなのに。

『利香。こっちのことは気にせんで。夢に向かって頑張って』

 電話を切って、利香は唇を噛みしめた。

 あれから何度も入退院を繰り返す母の寿命はもうあまり残っていないらしい。

 その前に、母が恋焦がれた南フランスの地に、布雑貨の店を出すという途方もない目標を掲げた。

 母を連れて行くのだ。

 何が何でも。

 それだけが償う方法なのだ、と利香はドクダミ茶をがぶりと飲んで、年季の入った水筒のまだ頑張っている保温力に負けて「アツッ!」と声を上げた。
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