三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
おばあちゃん社員が自分で育てた野菜を山ほど持ってきた。

 更衣室の長い椅子の上に並べて「ご自由にどうぞ」と書かれた紙が貼ってあった。

 おばあちゃん社員の仲間は「美味しそう」「きれいな野菜ね」と言って少しずつ持ち帰った。

 中堅の社員たちは「ああ、ほうれん草買ったばかり。ダメにしたら悪いから」と持っていかなかった。

 若い社員はちらっと野菜を見ただけで無視。

 はなから必要のないものには興味もない。

 利香はもちろん飛びついた。

「遠藤さん、全部いい?」

「そりゃいいけど。そんなに持って帰れるの?」

「平気平気」

 チラッと武者の顔が浮かんだけど、迎えにきてもらうような関係ではない。

 でも、青々としほうれん草や瑞々しい白菜、利香の足のような大根を抱えた利香を、武者はいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれるんだろうな、と想像したら顔がニヤけた。

「また」

「え?」

「ニタニタ」

「そう?」

「だいたいそんなに持って帰ってどうすんのよ」

 ミキが疑わしそうな目で睨む。

「食べるんだよ。それ以外、何かある?」

「今日はバレンタインデーだし」

「だから?」

「いや、別に」

 ミキは大沢課長とはまた別の思考で利香の変化に気づいている。

 ただそれが何なのかわからないから、常に疑り深い目で詮索してくるのだ。

 遠藤さんがあらかじめ用意してくれていたレジ袋に野菜を詰め込む。

 何袋にもなってしまって、電車に乗って帰れるか不安になった。

 駅を降りてもアパートまではかなり歩く。

 そこへ武者からラインが届いた。

『今夜も80%オフに挑戦ですか?』

「もうやめた」

『学生アルバイトさんの気持ちとおばあさんの食料確保のためですね』

「まあね。今日は帰って鍋にする」

『!』

「一緒に食べる?腐るほど野菜をもらったよ。ガス代節約のために」

『テンション上がりました。腐らせません。なにがなんでも』

 利香は野菜の袋を下げて、ヨロヨロと歩いた。

 電車ではあからさまに迷惑そうにされたけど、全く目に入らなくて、逆に思い出し笑いをしてしまった。

 先日、もう少しガス代が節約できないかなあと、利香がぼやいたら、武者が真面目な顔で言ったのだ。

「じゃあ、お風呂も一緒に入ろうか」

 慌てて何か言おうと口をパクパクさせている利香に「冗談ですよ」と武者が笑った。

 その時のことを思い出していたのだ。

 契約違反だ、と言いたかったけれど言葉にならず、どうしてあそこまで慌てたのかもよくわからず、それを楽しそうに見ていた武者の顔。

 また顔が緩んでいるのを自覚して、利香はきゅっと頬を引き締めた

 アパートが見えてきた。

 袋を何度か持ちかえながら階段をのぼりかけたら、降りてくる大家さんと鉢合わせした。

「こんばんは」

 大家さんはなんだか不敵な笑みを浮かべて利香を見ている。

 どうしよう。

 見つかってしまった。

 出て行け、と言われたらどうしよう。

 泣きたい気持ちになった。

「一ノ瀬さん」

「は、はい・・」

「おめでとう」

 含み笑いの大家さんはそれだけ言うと行ってしまった。

 バレンタインデーおめでとう?

 チョコをあげなかったから皮肉を言われた?

 でも見つかってしまった。

 半泣きで玄関を開けた。

 もう見つかってしまったのだから、声をひそめる必要はない。

「武者〜!ヤバイんだけど〜!」

「おかえり」

 武者は利香の手元の荷物を見て「ラインくれれば迎えに行ったよ」と言った。

 そういうの、アリだったんだ、と思ったけど今はそれどころではなかった。

「大家さんに見つかっちゃった」

「うん。そうだね」

「そうだねって」

「朝、聞かれたんだ。この前、アパートに小走りで駆け込む一ノ瀬さんを見た、朝、アパートから出て行く一ノ瀬さんを見た。何か知ってる?って」

「で?」

「答えたよ」

「なんて?」

「俺たち、結婚しましたって」


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