三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
武者の言葉が気になった。
元々武者には好きな人がいるから、利香に好きな人ができたら、という限定的な言い方をしたのだろうか。
もう好きな人がいて、その人とは将来を約束していて、その日が来るまで武者は必死でお金を貯めているのかもしれない。
ふたりの豊かな生活のために。
それとも元カノにあまりにも残酷に振られたから当分恋なんてしないと決めているのか。
でも、そのどちらも違う、と利香には思えてならなかった。
こんなに近くに、1日の中で1番長く一緒にいる武者を見てきた利香には、そんな風な人にはどうしても見えなかった。
いずれにしても利香は救われた。
川での武者の告白は曖昧だった。
別居を切り出されたようで胸が苦しかった。
でも、一応救われた。
心底ホッとしていた。
いったいこの感情はどこから湧いてきて、自分に何を訴えようとしているのか、利香にはわからなかった。
職場では困ったことが起きていた。
利香にチョコをもらえなかった大沢課長は、かなりしつこく詮索してきた。
そしてとうとう本性を出した。
「一ノ瀬。今日空いてるか?」
「は?」
「仕事終わったら飯でも食いにいかないか?」
「家で残業があるので」
「あんなの一ノ瀬ならチョロいだろ」
「いえ、かなりの量です。こなせないです」
「今日ぐらいどうってことないだろ?」
「何か大事な話でもあるんですか?」
大沢課長は少し言い淀んで辺りを警戒するように目玉を動かした。
「ほら、おまえ今年は俺に」
ああ、チョコか。
この人って執念深い人だったんだ。
職場での彼しか知らないから、人って見かけによらない、と再認識した。
「で?」
「ショックだったんだよ」
え?大の大人がチョコが貰えなくてショックだと?
ガッカリだよ、課長。
「俺、少なからず一ノ瀬のこと」
え?何ですか、それ。
「そりゃあ妻子持ちだよ。でも、だからって幸せとは限らないよな」
「あの、課長」
「一ノ瀬だけは俺のこと見てくれているって思ってさ」
「私を誘ってるんですか?」
「一ノ瀬、変わったな」
大沢課長が眩しそうに目を細める。
「変わりましたよ、私」
「なんか綺麗になった」
「私が課長と付き合えば、ダブル不倫になりますよ」
「な、な、なんでだよ・・・」
「言葉通りです。では、失礼します」
更衣室に飛び込んで、震える足をさすった。
思わず言ってしまったが、たぶん明日にはみんなの知るところになるだろう。
大沢課長の長所は思ったことを口にするところ。
今さら後悔しても仕方ない。
帰って武者に話したら、笑顔で「退治できてよかったね」と言うだろう。
武者の顔を思い出すとホッとする。
気持ちが妙に落ち着く。
でも、その晩は落ち着いてなどいられなかった。
武者の部屋で、利香は作り終えた型紙に合わせて布を切っていた。
マスクを数種類とポーチを数種類。
ベッドで本を読んでいる武者が時々、その生地の柄はいったい何なのか?と聞いてくる。
その度に「市松模様」とか「ペイズリー」と答えて布にハサミを入れた。
布を切る小気味良い音が静かな部屋に響く。
「いい音だね」
武者が笑顔を向ける。
その時、外廊下の方で誰かが叫ぶ声が聞こえた。
2人して耳を澄ませた。
『リカ!リカ!いるんでしょ!開けてよ!』
嘘だろ。
利香は眉を寄せた。
「女の人の声だね。何かあったのかな」
ベッドから起きあがろうとした武者を利香が制した。
「怒ってるのかな」
「たぶん」
「興奮してるね」
「かなり」
「リカって言ったよね」
「うん、言った」
「知り合いだよね」
武者は再び起き上がって袖が少しほつれたカーディガンを羽織った。
武者は玄関に向かった。
利香も後に続いた。
ミキは201号室の扉を深夜にも関わらずドンドン叩いている。
「部屋、間違えてる」
武者が玄関の扉に耳を押し当ててクスッと笑った。
利香もつられて笑ったが、その顔は少し引き攣っている。
『リカ!出てきなさいよ!リカ!』
『もしもしお嬢さん、何の騒ぎかな』
「大家さんだ」
武者が楽しそうに利香を見た。
『その部屋の人なら結婚して引っ越しましたよ』
ヤバイ。
嫌な予感しかしない。
『202号室に』
元々武者には好きな人がいるから、利香に好きな人ができたら、という限定的な言い方をしたのだろうか。
もう好きな人がいて、その人とは将来を約束していて、その日が来るまで武者は必死でお金を貯めているのかもしれない。
ふたりの豊かな生活のために。
それとも元カノにあまりにも残酷に振られたから当分恋なんてしないと決めているのか。
でも、そのどちらも違う、と利香には思えてならなかった。
こんなに近くに、1日の中で1番長く一緒にいる武者を見てきた利香には、そんな風な人にはどうしても見えなかった。
いずれにしても利香は救われた。
川での武者の告白は曖昧だった。
別居を切り出されたようで胸が苦しかった。
でも、一応救われた。
心底ホッとしていた。
いったいこの感情はどこから湧いてきて、自分に何を訴えようとしているのか、利香にはわからなかった。
職場では困ったことが起きていた。
利香にチョコをもらえなかった大沢課長は、かなりしつこく詮索してきた。
そしてとうとう本性を出した。
「一ノ瀬。今日空いてるか?」
「は?」
「仕事終わったら飯でも食いにいかないか?」
「家で残業があるので」
「あんなの一ノ瀬ならチョロいだろ」
「いえ、かなりの量です。こなせないです」
「今日ぐらいどうってことないだろ?」
「何か大事な話でもあるんですか?」
大沢課長は少し言い淀んで辺りを警戒するように目玉を動かした。
「ほら、おまえ今年は俺に」
ああ、チョコか。
この人って執念深い人だったんだ。
職場での彼しか知らないから、人って見かけによらない、と再認識した。
「で?」
「ショックだったんだよ」
え?大の大人がチョコが貰えなくてショックだと?
ガッカリだよ、課長。
「俺、少なからず一ノ瀬のこと」
え?何ですか、それ。
「そりゃあ妻子持ちだよ。でも、だからって幸せとは限らないよな」
「あの、課長」
「一ノ瀬だけは俺のこと見てくれているって思ってさ」
「私を誘ってるんですか?」
「一ノ瀬、変わったな」
大沢課長が眩しそうに目を細める。
「変わりましたよ、私」
「なんか綺麗になった」
「私が課長と付き合えば、ダブル不倫になりますよ」
「な、な、なんでだよ・・・」
「言葉通りです。では、失礼します」
更衣室に飛び込んで、震える足をさすった。
思わず言ってしまったが、たぶん明日にはみんなの知るところになるだろう。
大沢課長の長所は思ったことを口にするところ。
今さら後悔しても仕方ない。
帰って武者に話したら、笑顔で「退治できてよかったね」と言うだろう。
武者の顔を思い出すとホッとする。
気持ちが妙に落ち着く。
でも、その晩は落ち着いてなどいられなかった。
武者の部屋で、利香は作り終えた型紙に合わせて布を切っていた。
マスクを数種類とポーチを数種類。
ベッドで本を読んでいる武者が時々、その生地の柄はいったい何なのか?と聞いてくる。
その度に「市松模様」とか「ペイズリー」と答えて布にハサミを入れた。
布を切る小気味良い音が静かな部屋に響く。
「いい音だね」
武者が笑顔を向ける。
その時、外廊下の方で誰かが叫ぶ声が聞こえた。
2人して耳を澄ませた。
『リカ!リカ!いるんでしょ!開けてよ!』
嘘だろ。
利香は眉を寄せた。
「女の人の声だね。何かあったのかな」
ベッドから起きあがろうとした武者を利香が制した。
「怒ってるのかな」
「たぶん」
「興奮してるね」
「かなり」
「リカって言ったよね」
「うん、言った」
「知り合いだよね」
武者は再び起き上がって袖が少しほつれたカーディガンを羽織った。
武者は玄関に向かった。
利香も後に続いた。
ミキは201号室の扉を深夜にも関わらずドンドン叩いている。
「部屋、間違えてる」
武者が玄関の扉に耳を押し当ててクスッと笑った。
利香もつられて笑ったが、その顔は少し引き攣っている。
『リカ!出てきなさいよ!リカ!』
『もしもしお嬢さん、何の騒ぎかな』
「大家さんだ」
武者が楽しそうに利香を見た。
『その部屋の人なら結婚して引っ越しましたよ』
ヤバイ。
嫌な予感しかしない。
『202号室に』