三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
あんな怖い武者を見たのは初めてだった。

 声を荒げるでもなく、その声は静謐で、それがかえって怖かったのだ。
 
 利香はどんなに思い出しても武者の笑顔しか思い出せなかったのに、たった一回のその怖い顔が今までの武者の笑顔のすべてを消してしまったようで悲しかった。

 ミキを外で見送った。

 ミキは武者の笑顔を知らないから、利香にそっと耳打ちした。

「あの男の目、ヤバイよ」

 詮索しない。

 立ち入らない。

 武者が本当は何のために利香と暮らし始めたのか知りたかった。

 でも、それをやったら知ったと同時にこの暮らしは終わる。

 知ったら、武者の怖い顔はそのままで、もうあの暖かい笑顔を見ることもなくなる。

 あの笑顔をこれからもずっと毎日見ていたい。

 どっちを取る?

 もう、そう思った時点で契約違反なのに、利香はどちらも手に入れたいと思い始めていた。

 部屋に戻ると武者はいつもの武者だった。

 いや、いつも以上に優しかったのだ。

「一ノ瀬さん」

「ん?」

「ごめん」

 いつもは、ごめんごめん、と少し陽気に謝るのに、ひとことだけだと、かえってその重みを感じる。

「何が?」

「見かけとは違うんだね」

「だから冗談は禁止って」

 自分のことは一切話さず、武者は利香に寄り添おうとしている。

 せっかく一緒に暮らしているんだから、何でも話してよ、とその目が言ってる。

「こういうことになるから立ち入らない方がいいんだね」

 利香は無理して笑った。

「武者、そんな苦しそうな顔して私のこと心配してくれてる」

「うん」

「この共同生活にそういうの、いらないんだよね」

 武者が立ち上がって、台所で湯を沸かす。

 ガスをカチッと点ける。

 武者が焙煎したドクダミ茶の香りが広がる。

 ヤカンがピーピー鳴り出し、いつもならすぐに止めるのに武者は止めなかった。

 利香は武者の横に並ぶと、沸騰したヤカンの火を消した。

「私に立ち入ったとか思わないでね」

「え?」

「私の場合は別に誰に聞かれたって困る話じゃないから。でも、気を使われたくはないな」

「うん」

「ミキが強引に聞いてきたんだし」

「そうだね」

「だから武者は契約違反にはならない」

 武者は急須にお茶っ葉を入れて湯を注いだ。

 利香と武者のマグカップに注ぎ、シンクに向かって一緒に飲んだ。

 始まりの日から何も変わらない、と心に言い聞かせても、武者の怖い顔が利香の頭から離れなかった。
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