三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
契約違反
「おかえり」
利香は定時で上がるとわき目も振らず帰宅した。
そして武者を待っていた。
「あ、ただいま」
「ライン来なかったから」
「ああ、ごめんごめん。つい」
「だからね、もう先に食べちゃった」
「そうか。よかった」
「武者は?」
「今日は食べてきちゃった」
「最近、外食が多いね」
「うん。また明日から切り詰めないとね」
武者にドクダミ茶を淹れるため、利香は立ち上がった。
武者も立って利香の横に並ぶ。
ふたりしてヤカンから上がる湯気に手をかざした。
ちょっと近づけすぎて、武者が「熱っ」と手を上げた時、利香の手とぶつかった。
いつも通りの夜が流れるけど、たぶんこれで終わり、と利香は武者の腕に少し触れている自分の肩の熱を感じながら思った。
いつか思い出した時、楽しかった、と思えるような夜を。
「今日も残業?」
「うん。武者の部屋でやっていい?」
「いいよ。俺も本読むし」
武者の寝室で利香は文机に向かった。
ベッドのわきに目をやると、武者の壊れたリュックが置いてあった。
「これ、直してあげようか」
「一ノ瀬さん、できるの?」
「あ、これでも一応プロ級ですけど」
「そうだったね」
「見かけによらず」
利香は笑って、武者のリュックを手に取った。
「中身、出してもい?」
「いいよ」
武者は抵抗なく答えた。
武者がいつも持ち歩いているリュックには、マジックテープのオンボロ財布、タオル、ティッシュ、大きめの手帳、文庫本、フリマで稼ぐ方法の本、それからバナナが一本。
利香はそれを見たら涙が出そうになって慌てて下を向いた。
リュックのファスナーは壊れてはいなくて、ファスナーとリュックの縫い目が解けていただけだった。
ミシンがあれば即効で直せるけれどリュックの布が分厚すぎるから工業用のミシンでないと無理だ。
利香はクッキーの空き缶で作った裁縫箱を自室から持ってくると、針に糸を通した。
糸をピンと張って何度か爪で弾く。
弦楽器を弾くみたいに。
ビンビンという音が響く。
武者が不思議そうにみていた。
「捩れがあるからこうして整えてるんだよ」
「そうなんだ。ちょっと痛めつける感じだね」
「そうそう。いい子になりなさいってね」
武者が笑う。
本当なら新しいファスナーに取り替えたいところだったけど同じ長さのファスナーが手持ちになかったから、かがり縫いで縫いつけていった。
針と糸を起用に操る利香の手元を武者はじっと見ていた。
「魔法使いみたいだね」
「まさか」
「でも、俺にはそう見える」
「でもある意味そうだよね。壊れたものが直っていくのってそんな感じだよね」
武者との生活も針と糸で縫い直せればよかったと利香は思った。
でも、それは無理な話だ。
ふたりの生活はたぶん始まりから終わりが見えていたのだ。
タイプとは真逆だとは言っても、初めて武者に会ったあの日からたぶん利香の気持ちは武者に向かっていたのだから。
一ノ瀬さんに好きな人ができたらこの生活は終わり、と武者は言った。
だから始まってなんかいなかった。
最初から終わりだったのだ。
「できた。ほら、ちゃんとファスナーが閉じられるよ」
「うわ、ほんとだ。もう中身が見えたりしないですむね」
「裏地が赤いから蓋がベロンとして、初めて会った時、あっかんべーってされてるみたいに見えたよ」
利香は笑った。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「終わりなの?って聞いたよね?」
「え?そうだっけ?」
「聞いてたよ」
「忘れちゃったかも」
「そうか。忘れちゃったのか」
「いいよ、もうそんなこと」
終わりなんだから。
「武者は何を読んでるの?まさかいやらしい本とか読んでんじゃないの?」
利香がにたっと笑う。
「まあ、男だからね、時々はさ」
「へえ」
「そういえばね、会社で私、花嫁さんになったんだよ」
「マジで?なんで?」
「武者と結婚したと勘違いされてさ。更衣室で花婿のいない結婚式挙げたんだ」
「ええ?」
「見る?写真」
「見る見る」
利香はスマホを開いて社員が撮ってくれた数枚の写真を武者に見せた。
武者はしばらく利香の写真に見入っていた。
「全部社員さんの手作りなんだよ。レースのショールもティアラもブーケも」
「かわいい・・・・ね」
「え?そう思う?」
「うん。すごくきれいだよ」
「うわ、武者がマジな顔で褒めてくれるとは思わなかった」
「この写真、俺に送ってくれない?」
「ええ?やだよ」
「だって、本来なら俺が横にいるはずだったんだよね」
「まあ、勘違いされてるけどね」
「だったらもらう権利あるでしょ。一応、仮にも花婿なんだから」
「しょ、しょうがないなあ。どれがいい?」
「ん・・・じゃあ、これ」
利香の体が真正面を向いているのに、隣にいる誰かを見た瞬間なのか、泣き笑いの顔で横を見上げている写真だった。
「じゃ、送るよ」
武者のスマホがポロンと鳴った。
花嫁姿の利香が、武者のところへ届いた。
利香は定時で上がるとわき目も振らず帰宅した。
そして武者を待っていた。
「あ、ただいま」
「ライン来なかったから」
「ああ、ごめんごめん。つい」
「だからね、もう先に食べちゃった」
「そうか。よかった」
「武者は?」
「今日は食べてきちゃった」
「最近、外食が多いね」
「うん。また明日から切り詰めないとね」
武者にドクダミ茶を淹れるため、利香は立ち上がった。
武者も立って利香の横に並ぶ。
ふたりしてヤカンから上がる湯気に手をかざした。
ちょっと近づけすぎて、武者が「熱っ」と手を上げた時、利香の手とぶつかった。
いつも通りの夜が流れるけど、たぶんこれで終わり、と利香は武者の腕に少し触れている自分の肩の熱を感じながら思った。
いつか思い出した時、楽しかった、と思えるような夜を。
「今日も残業?」
「うん。武者の部屋でやっていい?」
「いいよ。俺も本読むし」
武者の寝室で利香は文机に向かった。
ベッドのわきに目をやると、武者の壊れたリュックが置いてあった。
「これ、直してあげようか」
「一ノ瀬さん、できるの?」
「あ、これでも一応プロ級ですけど」
「そうだったね」
「見かけによらず」
利香は笑って、武者のリュックを手に取った。
「中身、出してもい?」
「いいよ」
武者は抵抗なく答えた。
武者がいつも持ち歩いているリュックには、マジックテープのオンボロ財布、タオル、ティッシュ、大きめの手帳、文庫本、フリマで稼ぐ方法の本、それからバナナが一本。
利香はそれを見たら涙が出そうになって慌てて下を向いた。
リュックのファスナーは壊れてはいなくて、ファスナーとリュックの縫い目が解けていただけだった。
ミシンがあれば即効で直せるけれどリュックの布が分厚すぎるから工業用のミシンでないと無理だ。
利香はクッキーの空き缶で作った裁縫箱を自室から持ってくると、針に糸を通した。
糸をピンと張って何度か爪で弾く。
弦楽器を弾くみたいに。
ビンビンという音が響く。
武者が不思議そうにみていた。
「捩れがあるからこうして整えてるんだよ」
「そうなんだ。ちょっと痛めつける感じだね」
「そうそう。いい子になりなさいってね」
武者が笑う。
本当なら新しいファスナーに取り替えたいところだったけど同じ長さのファスナーが手持ちになかったから、かがり縫いで縫いつけていった。
針と糸を起用に操る利香の手元を武者はじっと見ていた。
「魔法使いみたいだね」
「まさか」
「でも、俺にはそう見える」
「でもある意味そうだよね。壊れたものが直っていくのってそんな感じだよね」
武者との生活も針と糸で縫い直せればよかったと利香は思った。
でも、それは無理な話だ。
ふたりの生活はたぶん始まりから終わりが見えていたのだ。
タイプとは真逆だとは言っても、初めて武者に会ったあの日からたぶん利香の気持ちは武者に向かっていたのだから。
一ノ瀬さんに好きな人ができたらこの生活は終わり、と武者は言った。
だから始まってなんかいなかった。
最初から終わりだったのだ。
「できた。ほら、ちゃんとファスナーが閉じられるよ」
「うわ、ほんとだ。もう中身が見えたりしないですむね」
「裏地が赤いから蓋がベロンとして、初めて会った時、あっかんべーってされてるみたいに見えたよ」
利香は笑った。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「終わりなの?って聞いたよね?」
「え?そうだっけ?」
「聞いてたよ」
「忘れちゃったかも」
「そうか。忘れちゃったのか」
「いいよ、もうそんなこと」
終わりなんだから。
「武者は何を読んでるの?まさかいやらしい本とか読んでんじゃないの?」
利香がにたっと笑う。
「まあ、男だからね、時々はさ」
「へえ」
「そういえばね、会社で私、花嫁さんになったんだよ」
「マジで?なんで?」
「武者と結婚したと勘違いされてさ。更衣室で花婿のいない結婚式挙げたんだ」
「ええ?」
「見る?写真」
「見る見る」
利香はスマホを開いて社員が撮ってくれた数枚の写真を武者に見せた。
武者はしばらく利香の写真に見入っていた。
「全部社員さんの手作りなんだよ。レースのショールもティアラもブーケも」
「かわいい・・・・ね」
「え?そう思う?」
「うん。すごくきれいだよ」
「うわ、武者がマジな顔で褒めてくれるとは思わなかった」
「この写真、俺に送ってくれない?」
「ええ?やだよ」
「だって、本来なら俺が横にいるはずだったんだよね」
「まあ、勘違いされてるけどね」
「だったらもらう権利あるでしょ。一応、仮にも花婿なんだから」
「しょ、しょうがないなあ。どれがいい?」
「ん・・・じゃあ、これ」
利香の体が真正面を向いているのに、隣にいる誰かを見た瞬間なのか、泣き笑いの顔で横を見上げている写真だった。
「じゃ、送るよ」
武者のスマホがポロンと鳴った。
花嫁姿の利香が、武者のところへ届いた。