三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
空腹と物音で目が覚めた。

セットした目覚まし時計はまだ鳴っていない。

音は昨日壁を伝った位置からは大きくずれ、玄関の外から聞こえた。

ザーッという音、ガシガシという音。

更新料を渋っている当てつけに大家が早朝から掃除でもしているのか。

顔を合わせるのも気が引けたから、利香は朝食用のバナナをかじり、身支度を整えるといつもより早く部屋を出た。

外廊下はびっしょり濡れていた。

やはり大家が・・と思ったら、開けっ放しになっている隣の玄関の扉から、昨日の男が現れた。

凍るように冷たい空気が古いアパートに充満している。

撒かれた水が冷気を強くしている。

吐く息を白くして、ボロボロのTシャツ姿の男がデッキブラシで玄関を掃除していた。

「あ」

「お」

男の顔を見た途端、唐揚げ弁当が頭に浮かんで空腹の腹が鳴った。

男は凍てつく冷気などものともしない笑顔を向けた。

「昨日はどうも」

そのやたら無駄に見える笑顔を見ていたら、まだまだ腹の虫が治っていないことに利香は気づいた。

だから無視して、進んだ。

底が少し剥がれていたから、安いパンプスは瞬間接着剤で止めてあった。

足下を流れる水がパンプスに浸透しないようにつま先だって歩いた。

露骨に迷惑そうな顔を男に向けながら。

「あ、そこ、気をつけて」

凸凹のコンクリートの床には、所々水溜りができている。

男が言う前に、そこに足を踏み入れてしまい、パンプスの半分が水に埋まった。

「ち、ちょっと、朝からやめてよ」

「ごめん、ごめん。もうすぐ出勤だから、こんな時間じゃないとできなくて」

男が悪びれず頭をかいた。

なんだか暖簾に腕押しのような感じだったから、利香はそれ以上相手にしないことに決め、外廊下を進んだ。

背中で、ザーッと水を流す音が聞こえた。

「はー、スッキリした〜」

男の声が階段を伝って響いてきた。

外に出ると大家と出くわした。

家賃も更新料も不動産屋を通すから、ここで支払え、とは言われないだろうけど、利香は身構えた。

「やあ、おはよう、一ノ瀬さん」

「お、おはようございます」

「朝から気持ちいいねえ、武者さんは」

「ムシャ?」

「一ノ瀬さんのお隣さん」

ああ、唐揚げ弁当か。

「週に二回はああやって玄関の掃除をして、ついでに外廊下まで流してくれるんだよね」

「でも、朝からちょっと迷惑というか」

「仕事があるからどうしても早朝になっちゃうんだよね。深夜だともっと迷惑でしょ?」

深夜も物音がして煩かった。

あの男に配慮という言葉は結びつかない。

大家はテカテカした顔に満面の笑みを貼りつけて利香を見ていた。

これ以上ここにいたら墓穴を掘りそうだったから、利香は人の良さそうな大家に頭を下げて背を向けた。

「ところでさ、一ノ瀬さん」

明るい大家の声が利香を呼び止めた。

とうとう言われるか、と身を硬くする。

利香は振り返らずに足を止めた。

「ずっとここで暮らしてほしいな」

年寄りには配慮がある。

でも言っていることは同じだ。

早く更新料を払え!ってことだ。

利香はそのまま歩き出し、だんだん歩調を早め、最後はヤケクソのように猛ダッシュをして駅まで向かった。


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