この後宮は期限付き平凡妃が乗っ取りました!
1 側妃の名は
天上の世界と見まごうほど、瑠璃帝の後宮は華やいでいた。
そこは黄金の調度に囲まれ、珍味が食卓に並び、もちろん類のないほど美しい妃たちが寵を競っていた。
けれど氷璃とあだなされるほど、瑠璃帝は誰にも関心を持たなかった。彼は後宮に立ち入ることすら少なく、家臣たちの憂いは日に日に増していた。
そんなある夜、家臣たちがどうにか瑠璃帝に妃を召させようと、後宮中の妃を集めて宴が開かれた。
「今夜瑠璃帝からお召しがあったら、宝珠宮にお部屋がいただけるそうよ」
「まあ! 彼の宮におわすなら正妃に等しいといわれるのでしょう?」
臣下は側妃たちに、ぞんぶんに対価をちらつかせていた。それに嬉々として乗る程度には、側妃たちには野心があった。
真昼のような明るさで誰も気づくことはなかったが、その日は新月だった。
百人の側妃たちを集め、それに続く侍女たちや数多くの舞姫が散りばめられた席に、瑠璃帝は姿を現した。
瑠璃帝は長身痩躯の青年で、二十七歳になろうという若き君主だった。黒髪を首の後ろで結って、翡翠の耳飾りをつけているだけで、はっと息を呑むような凛々しさをまとっていた。
「……始めてくれ」
けれども彼はそれが彼の常のとおり、今日も誰にも目を留めることなく、最小限の動きで皇帝の席に座しただけだった。
家臣たちは気まずそうに目を見合わせたものの、音楽を奏で、酒をふるまい始めた。
側妃たちが楽器を奏で、時に華奢な手足を見せつけて踊る中、瑠璃帝は小さく息をついたようだった。
「陛下?」
さすがに席を立つまではしなかったものの、瑠璃帝は明らかに退屈していた。子どもの頃から瑠璃帝に仕える臣下はそれに気づいて、お言葉がないか側に駆け寄る。
瑠璃帝は何も言わずに窓の外を仰ぎ見た。自らが治める地上の繁栄はこの程度かと、呆れたように目を逸らしたようだった。
そのとき、側妃たちの間に静けさが走った。風が舞い込んだように辺りの灯りが消え失せて、楽器の音色が止まる。
家臣たちは慌てて、従者たちに急ぎ命令を下す。
「灯りをつけよ。これ、なぜ音楽をやめる」
「舞を止めてはならん」
けれど灯りはなかなか灯らず、音楽と舞をやめた側妃たちを再び動かすことも難しかった。側妃たちはぼんやりと互いを見合い、時には眠っている側妃もいた。
あやかしが入り込んだのではと怯える家臣たちの中で、瑠璃帝は意識を張り巡らせてその異常の本質を探していた。
果たして瑠璃帝が目で捉えた怪異の中心に、その側妃はいた。酒席でありながら一人のんびりと茶をすすり、ひなたぼっこをしているように目を細めてくつろいでいるのが、かえって奇妙だった。
瑠璃帝は臣下を呼び寄せ、その側妃を見やりながら問いかけた。
「あの妃は何者か。あの……」
その妃は長くも短くもない黒髪を紺の紐で緩く結い、女官に混じりそうな小豆色の衣をまとっていた。
瑠璃帝はその側妃を名指しするため、臣下に特徴を伝えようとする。
「側妃の……」
しかし瑠璃帝が言葉に詰まってしまうのは、どうにもその側妃に特徴がないからだった。
着ている物も、その姿も、華美ではない代わりにみすぼらしくもない。確かに後宮という世界においては地味かもしれないが、非をとがめるほどでもない。
ただ臣下の中には勘のよい者もいて、言葉に迷う瑠璃帝の意を忠実にくみ取った。
「凡妃でございますか」
凡妃。それを聞いて、瑠璃帝は心を痛めたようだった。彼はすぐさま臣下をとがめて言う。
「凡妃とは女人に酷かろう。私は名をたずねている」
「いえ、それが」
瑠璃帝の手元には優秀な臣下があふれている。そのうちの一人が無駄なほど正確な知識を披露してみせた。
「本日、凡妃の名で後宮入りした妃です。身元はしっかりしています。平家の三番目のご息女です」
「平家の」
瑠璃帝は心の中で、平凡妃とつぶやいた。なぜ親御はそのような名を女児につけたのか、少し怒りたくなった。
普段めったなことで表情を変えない瑠璃帝が顔をしかめたことに臣下は気づいて、臣下は進言する。
「罰しますか?」
「何の罪で罰するというのだ」
瑠璃帝は彼にしては珍しく苛立たしげに言葉を放つ。
灯りが消えたから。側妃たちが踊らなくなったから。それを怪異と言うのかは別として、ふいに舞い込んだ風のように自分の心を乱しているのが瑠璃帝は信じられなかった。
家臣ははっと息を呑んで、そろりと進言する。
「では……お召しになりますか?」
瑠璃帝がちらとその側妃を見れば、彼女は今日後宮入りしたとは思えないほど悠々と茶をたしなんでいた。
目が合ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。けれど気づけばまじまじと彼女を見ている。少し毛先に癖のある髪、猫がほほえんだような口元、そういうものに可愛げさえ感じてしまう。
「いや……」
彼女を罰するのも、夜に召すのも、何か空恐ろしい。瑠璃帝はあやかしを見てしまった気分で、言葉を濁らせる。
瑠璃帝は考え込んでから、ぽつりと命令を下す。
「ひとまず宝珠宮に居を移らせよ。後日、今日のてん末を私から問いただす」
家臣は、瑠璃帝が彼女を気に入ったのか警戒しているのか判別がつかなかった。
「いいな。丁重に扱うように」
それもそのはずで、瑠璃帝自身、ちらちらと凡妃をうかがう自分の感情が後日どんな形になるのか、まだ想像することができないのだった。
そこは黄金の調度に囲まれ、珍味が食卓に並び、もちろん類のないほど美しい妃たちが寵を競っていた。
けれど氷璃とあだなされるほど、瑠璃帝は誰にも関心を持たなかった。彼は後宮に立ち入ることすら少なく、家臣たちの憂いは日に日に増していた。
そんなある夜、家臣たちがどうにか瑠璃帝に妃を召させようと、後宮中の妃を集めて宴が開かれた。
「今夜瑠璃帝からお召しがあったら、宝珠宮にお部屋がいただけるそうよ」
「まあ! 彼の宮におわすなら正妃に等しいといわれるのでしょう?」
臣下は側妃たちに、ぞんぶんに対価をちらつかせていた。それに嬉々として乗る程度には、側妃たちには野心があった。
真昼のような明るさで誰も気づくことはなかったが、その日は新月だった。
百人の側妃たちを集め、それに続く侍女たちや数多くの舞姫が散りばめられた席に、瑠璃帝は姿を現した。
瑠璃帝は長身痩躯の青年で、二十七歳になろうという若き君主だった。黒髪を首の後ろで結って、翡翠の耳飾りをつけているだけで、はっと息を呑むような凛々しさをまとっていた。
「……始めてくれ」
けれども彼はそれが彼の常のとおり、今日も誰にも目を留めることなく、最小限の動きで皇帝の席に座しただけだった。
家臣たちは気まずそうに目を見合わせたものの、音楽を奏で、酒をふるまい始めた。
側妃たちが楽器を奏で、時に華奢な手足を見せつけて踊る中、瑠璃帝は小さく息をついたようだった。
「陛下?」
さすがに席を立つまではしなかったものの、瑠璃帝は明らかに退屈していた。子どもの頃から瑠璃帝に仕える臣下はそれに気づいて、お言葉がないか側に駆け寄る。
瑠璃帝は何も言わずに窓の外を仰ぎ見た。自らが治める地上の繁栄はこの程度かと、呆れたように目を逸らしたようだった。
そのとき、側妃たちの間に静けさが走った。風が舞い込んだように辺りの灯りが消え失せて、楽器の音色が止まる。
家臣たちは慌てて、従者たちに急ぎ命令を下す。
「灯りをつけよ。これ、なぜ音楽をやめる」
「舞を止めてはならん」
けれど灯りはなかなか灯らず、音楽と舞をやめた側妃たちを再び動かすことも難しかった。側妃たちはぼんやりと互いを見合い、時には眠っている側妃もいた。
あやかしが入り込んだのではと怯える家臣たちの中で、瑠璃帝は意識を張り巡らせてその異常の本質を探していた。
果たして瑠璃帝が目で捉えた怪異の中心に、その側妃はいた。酒席でありながら一人のんびりと茶をすすり、ひなたぼっこをしているように目を細めてくつろいでいるのが、かえって奇妙だった。
瑠璃帝は臣下を呼び寄せ、その側妃を見やりながら問いかけた。
「あの妃は何者か。あの……」
その妃は長くも短くもない黒髪を紺の紐で緩く結い、女官に混じりそうな小豆色の衣をまとっていた。
瑠璃帝はその側妃を名指しするため、臣下に特徴を伝えようとする。
「側妃の……」
しかし瑠璃帝が言葉に詰まってしまうのは、どうにもその側妃に特徴がないからだった。
着ている物も、その姿も、華美ではない代わりにみすぼらしくもない。確かに後宮という世界においては地味かもしれないが、非をとがめるほどでもない。
ただ臣下の中には勘のよい者もいて、言葉に迷う瑠璃帝の意を忠実にくみ取った。
「凡妃でございますか」
凡妃。それを聞いて、瑠璃帝は心を痛めたようだった。彼はすぐさま臣下をとがめて言う。
「凡妃とは女人に酷かろう。私は名をたずねている」
「いえ、それが」
瑠璃帝の手元には優秀な臣下があふれている。そのうちの一人が無駄なほど正確な知識を披露してみせた。
「本日、凡妃の名で後宮入りした妃です。身元はしっかりしています。平家の三番目のご息女です」
「平家の」
瑠璃帝は心の中で、平凡妃とつぶやいた。なぜ親御はそのような名を女児につけたのか、少し怒りたくなった。
普段めったなことで表情を変えない瑠璃帝が顔をしかめたことに臣下は気づいて、臣下は進言する。
「罰しますか?」
「何の罪で罰するというのだ」
瑠璃帝は彼にしては珍しく苛立たしげに言葉を放つ。
灯りが消えたから。側妃たちが踊らなくなったから。それを怪異と言うのかは別として、ふいに舞い込んだ風のように自分の心を乱しているのが瑠璃帝は信じられなかった。
家臣ははっと息を呑んで、そろりと進言する。
「では……お召しになりますか?」
瑠璃帝がちらとその側妃を見れば、彼女は今日後宮入りしたとは思えないほど悠々と茶をたしなんでいた。
目が合ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。けれど気づけばまじまじと彼女を見ている。少し毛先に癖のある髪、猫がほほえんだような口元、そういうものに可愛げさえ感じてしまう。
「いや……」
彼女を罰するのも、夜に召すのも、何か空恐ろしい。瑠璃帝はあやかしを見てしまった気分で、言葉を濁らせる。
瑠璃帝は考え込んでから、ぽつりと命令を下す。
「ひとまず宝珠宮に居を移らせよ。後日、今日のてん末を私から問いただす」
家臣は、瑠璃帝が彼女を気に入ったのか警戒しているのか判別がつかなかった。
「いいな。丁重に扱うように」
それもそのはずで、瑠璃帝自身、ちらちらと凡妃をうかがう自分の感情が後日どんな形になるのか、まだ想像することができないのだった。
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